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kiitos !

先日MySpaceのメールボックスに、フィンランドのミュージシャンからとてもうれしいメッセージが届いた。ちょっとした挨拶のつもりなのだと思うけど、私の絵をとても気に入ってくれたような言葉がつづってあってうれしかった。

そのメッセージの冒頭に「kiitos」って書いてあって、これはいったいなんだろう?って、気になった。フィンランド語なんて、私には調べようがない。でも意味がわからないと思うと、それが一つの暗号のように、何かとても大事な意味があるようにも思えてくる・・・。

悩んだ末に、何か出てくるかと思ってネットの検索にかけてみたら、なんとまぁ、がっかりするくらいたくさんのページが出てきた。「kiitos(キートス)」はフィンランド語の「ありがとう」の意味だった。なんてことない言葉。でもとてもうれしい言葉。

キートス、キートス、キートス・・・心の中で繰り返してみると、その響きがとても心地よい。素敵な言葉だなって思う。

フィンランドってどんな国なんだろう。あらためて思い描こうとしてみても、雪とサンタクロースとムーミン意外に、ほとんど何も知らない自分に気づく。雪のイメージばかりが強いけれど、フィンランドの春や夏も素敵なんだろうな。きっと想像以上に、美しい音楽や物語を生み出す風土がそこにあるんだと思う。いつか行ってみたいな。

《フィンランド政府観光局》http://www.moimoifinland.com/

なくしたはずの絵

部屋の引っ越しをした時に、いろいろと思わぬものが部屋から出てきました。これはそのひとつ。なくしたと思ってた絵がゴミにまみれて出てきました。倉庫代わりに使っていた、半屋外のような場所に置いてあったので、損傷なく生きていたことが奇跡に近かったです。どうしてそんな風にゴミ扱いしていたのか、自分では覚えてないのですが、描いた当時からあまり気に入っていない作品だったので、ぞんざいに扱ってしまったのかもしれません。

これを描いたのは10年くらい前。タイトルは「猫が死にましたので」という、悲しいものでした・・・。この絵を描いた当時、私は絵の方向性をまったく見失っていて、ひどく苦しんでいました。絵以外のことでも、いろいろと思い悩んでいて、私の今までの人生で一番暗い時代だった気がします。すこし、心のバランスを崩していたような。基本的にはずっと能天気に、いいかげんに生きてきた私ですが、まぁ、そんな時代もあったわけです。

そんな嫌な記憶を遠ざけたくて、この絵を無意識のうちに封印してたのかもしれません。絵自体は、別にどうってことないものなんですが、当時の記憶が思い出されるのはやっぱりずっと嫌でしたから。こうやって無意識の心的作用があって物をなくしてしまうのを、フロイトは「錯誤行為」って言ったんでしたっけ。今は、「あぁ、そいう時期もあったなぁ」と、余裕を持って考えることができるのですが。

ひさしぶりにこの絵に向き合って、そんな当時の自分をほろ苦く思い出したのでした。

父の描くバラ

私の父は絵を描きます。もちろんプロではないのですが、司法書士というカタ〜い仕事の傍ら、若いときからずっと絵を描き続けています。日曜画家というには言葉足らずで、家には立派なアトリエもあって、一人の画家としてのキャリアは、私が言うのもなんなのですが、なかなかのものだと思います。最初の個展をやったとき、私は中学生だったのですが、その売上金の一部をユニセフかどこかの慈善団体に気前よく寄付してしまって、地元の新聞に写真付きの記事となったこともありました。何も知らなかった私は、学校のホームルームの時、皆の前で先生に褒められてびっくりしたものでした。(母はすごく怒ってたけど・笑)

そんな父がいたものですから、学生の頃、自分は絵を描いていると話をすると、「あぁ、やっぱりお父さんの影響ですね」とよく言われたし、絵の仕事をするようになってからは、父が絵を描くと話をすれば、「あぁ、やっぱり」と言われる。「やっぱり」と言われるのは、うれしいようでもあり、少し違和感を感じたりもするのです。

私は父から絵の手ほどきを受けたことは、ほとんどありません。パレットや筆の洗い方の大事さとか、デッサンについての精神論的なことなどは、何度も繰り返し聞かされたのですが。技術的なことはまったくと言っていいほど、教わったことはありません。絵は教えられて描くものではない、という父の信念が根底にあったからだと思います。
そういう芸術に理解の深い親を持って良かったでしょう? と人に言われることが多いのですが、そんなことは全然なくて、芸術で食べていくことの厳しさを知っているが故、私が絵の道に進みたいと考えた時、いつも大反対されました。高校生の頃とかは、大喧嘩したことも度々・・・。私も若かったので、そんな父の言うことを理解できず、いがみ合ったりしたのですが、年を経てから、あのとき父が与えてくれた示唆が、その後の自分の人生に与えた影響が大きかったと思うことが度々あります。

結局私は今まで一度も、絵についての専門的な教育を受けたことがありません。だからデッサンはヘタクソ(笑)。色の混色の仕方も重ね方も、実にめちゃくちゃです。絵を習ったことがないことに、コンプレックスを感じた時期もありましたが、今はもうそんなこともなくて、それもまた自分の絵なんだからいいのでは・・・とすっかり開き直って考えられるようになりました。「絵は教えられて描くものではない」という父の言葉が、知らず知らずのうちに私の中にも刷り込まれていったのかもしれません。
私と父とは、お互い歩んで来た道が違うし、画風も(ご覧の通り)まったく違うのですが、この歳になってあらためて父の絵を見てみると、どこかしら共通する何かを、ふと感じたりします。

バラと大山(地元の有名な山)ばかりを、飽くことなく、たくさんたくさん描き続けている父。そんな父の絵が、私は好きです。

キツネのことば

先日書棚を整理してたら、サン=テグジュペリの『星の王子さま』にふと目がとまって、ひさしぶりに本をひもといてみた。私は、この本の中でとりわけ、キツネと王子さまが会話するくだりが好きだ。

「おれは、毎日同じことして暮らしてるよ。おれが牝鶏をおっかけると、人間たちがおれをおっかける。牝鶏たちはどれもみんな似たり寄ったり。人間もまたみんな似たり寄ったりで、おれは少々うんざりしてしまう。だけどもし、あんたがおれを飼いならしてしてくれたなら、おれはお日様にでもあたっているような、明るい気持ちになるだろうな。足音だって、今までとは違うものを聞き分けるようになるんだ。他の足音がすると、おれは穴の中にすっこんでしまう。でも、あんたの足音がすると、おれは音楽でも聞いてるような気持ちになって、穴の外へ飛び出すだろうな。
それに、あれを見なよ。向こうに見える麦畑は、どうだね? おれはパンなんか食やしない。おれにとって、麦なんて何の役にも立ちゃしない。だから麦畑を見たところで、おれは思い出すことなんて、なんにもありゃしない。それどころかあれを見ると気が塞ぐんだ。だけど、あんたのその金色の髪は、うつくしいなぁ。あんたがおれを飼いならしてくれたなら、それは素晴らしいことだろうなぁ。金色の麦を見ると、おれはあんたを思い出すだろう。そして、麦を吹く風の音も、おれには心地よく感じるだろう‥‥」

ここに引用した中で「飼いならす=apprivoiser」という言葉は、ちくま学芸文庫の『おとなのための星の王子さま(小島俊明・訳)』に従ったもの。この場面、岩波版(内藤 濯・訳)は単に「仲良くなる」となっているのだけど、小島俊明は(原文に則すると)この言葉にこそ、作者の人生哲学が秘められていると注釈している。

悲しかった王子さまは、キツネと最初に出会った時、性急に「一緒に遊ぼうよ」と呼び掛ける。でもキツネは、「おれは、あんたと遊べやしないよ。飼いならされちゃいないんだから」と言って、王子さまを突き放す。王子様は「飼いならすって、どういうこと?」と質問するが、キツネははぐらかしてばかりでちゃんと答えようとしない。執拗に食い下がる王子さまに、やっとキツネは「きずな(=liens)をつくる、ってことさ」と、再び謎の多い言葉を残すのである。そして、「きずなをつくる」には「辛抱が大事」と補足する。この辺りのキツネと王子様の会話は、言葉通りの意味ではなく、詩的な表現として受け止めるべきなのだろう。作者の真意は捉えきれないけれど、「自分が大切に思う対象に対して、どれだけたくさん自分の時間を費せるかが大事」という意味なのだと、私は解釈している。

結局、「きずなをつくる」ための充分な時間を持てない王子さまは、キツネの前から去ってしまう。キツネは王子さまとの別れの場面に至ってようやく、「大事なこと」を教えようと、語り始める。

「さっきの秘密を言おうかね。なぁに、なんでもないことさ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。大事なことはね、目で見えないんだ。人間たちは、この大事なことを、忘れてしまってる。でもあんたは、この大事なことを忘れちゃいけない。あんたが飼いならしたものに対しては、いつまでも責任があるんだよ。守らなければいけないんだ‥‥」

私はこの場面を読みながら、キツネの心情を思いやると、いたたまれない気持ちになる。誰かのことをかけがえもなく大切に想うということは、きっとこういうことなんだろうなって思う。何度読み返しても、この場面のキツネのことばが心に響く。
 

※イラストはずっと前に描いた「わたしの畑で」という絵の一部分。麦畑のイメージで。

私のパレット

仕事の打ち合わせでお茶の水まで出掛けた折、次のお客さんとの約束が急にずれ込んでしまい、ぽっかり時間が空いてしまった。特に用事もなく駅周辺をブラブラしていたら、ふと画材屋さんの前を通りかかった。透明水彩の絵具を何色か切らしていたことを思い出し、ちょうどいい機会と思って買って帰った。

私が透明水彩の絵具を買うのは、かれこれ15年ぶりくらいになる。当時私は大学生で、アルバイトをしていた吉祥寺の画材屋さんで数色買い足して以来のことだ。その前となると20年くらい前、高校1年か2年生くらいの時に遡る。この時に買ったNOUVELという国産メーカーの安物の18色セットの透明水彩を、今もずっと使い続けている。水彩画の教書に習い、パレットにあらかじめ絵具を固めておいて、その都度筆に水を含ませて絵具を溶いて使っていると、案外かなり長持ちする。私はあまり大きな絵は描かないし、広い色面を塗る時はガッシュや顔彩を用いる。普段仕事で描く絵はほとんどがA4以下なので、一枚描き上げたところでどれほども減りはしない。そんなわけで同じ絵具、同じパレットと、私はもう20年もつき合ってきたわけだ。

私は画材には結構こだわっている。鉛筆はカステル、筆はラファエロ、ガッシュはペリカンという具合で、求めるものが高価であっても躊躇しない。でも何故だか透明水彩だけは、この安っぽい国産のものを使い続けている。どこかの時点で、もっと発色のいい定評のあるものに切り替えても良かったのだけど、私の絵にはこの絵具の少しくすんだ色合いが合ってるようなのだ。それに20年も親しんできただけに、どの色とどの色を合わせるとこういう色になるとか、このくらいの水の含ませ加減でこのくらいの色の伸びになるという加減が、手と頭に染み付いてしまっている。今更違うものの性格を覚え直すのは、ひどく面倒な気がするし、勇気がいる…。

今日も本当は同じメーカーのものを探したのだけれど、もう扱っていないということなので、仕方なくホルベインの透明水彩を買ってみた。昔はどこの画材屋でも扱っていた商品なのに、どうして最近は見かけなくなったんだろう。もう生産していないんだろうか。だとしたら、とても残念なことだ。近頃は画材の売れ行きがひどく落ち込んでいるらしいので、時代の流れの中では仕方ないことなのかな。

それにしても、絵を描いてお金をもらう立場の人間が、こんなにも久しく絵具を買い足さなかったなんて、あまり大きな声で言えることではないだろう。実際、絵具の減りが少ない描き方とはいえ、いかに作品が少ないかを物語っているようだ。もっともっと絵具を使いまくって、たくさん作品を描き続けないといけないんだろうな。今更ながらにそんなことを反省してみる一方で、自分と絵具達とのつきあい方を、ちょっと愉快に思った。

さて15年ぶりに新しく仲間入りした絵具達。私のパレットに馴染んでくれるだろうか。

小川さんの詩集のこと

小川さんとの出会いは、今から8年程前に遡ります。私は当時最初に勤めた会社を早々と退社してしまい、バイトなどしながらその日暮しをしていました。

そんな折友人から、ある人の詩集の挿絵を描いてくれないかという話を持ちかけられました。先方にも私の絵を見せてあるからというので、なんとなく安請け合いしてしまいました。何か気のきいた、可愛らしいペン画でも描けばいいのだろうという程度の考えでした。それから数週間たって、早速原稿が届きました。それに目を通して、私は正直驚いてしまいました。私の想像を越えて、それは完成度の非常に高い、大変重みのある内容のものだったのです。詩の心得がない私であっても、その作品の内側から溢れてくる輝きは、確かなものだとわかりました。本物の詩人の言葉でした。

私は正直戸惑いました。「私が挿絵なんて描いていいのだろうか、どうして私なんかに挿絵を依頼したのだろう---。」私に期待を持ってくれるのは、うれしいことに違いなかったのですが、自分には自信がなかったのです。それからずいぶん悩みましたが、なんとか自分なりの解釈で詩の世界を汲み取り、スケッチらしいものを何枚か描いて作者に送ってみました。すると思いがけなく、良い返事をいただくことができました。そして、挿絵だけでなく表紙を含めた装丁までやらせていただくことになったのです。

さてそのスケッチを元に実際の挿絵を仕上げ、装丁のデザインを詰めていったわけですが、その詩集の完成までにそれから更に1年半もの月日がかかってしまいました。ちょうど資生堂からのイラストの仕事と重なった時期で、ひどく忙しかったのも事実なのですが、この当時、私は自分の絵に迷っていたのです。可愛らしい絵のスタイルをもっと洗練させてお金になる絵を描くべきなのか、それとも自分の絵に欠けている絵画性を補う努力をすべきなのか、私は自分の進むべき方向性をつかめずにいました。経済的にも、精神のバランスもとても不安定な時で、何をするにも余裕のない状態だったのです。
それでも小川さんはいつも寛容な態度で接してくださり、辛抱強く私の原稿ができるのを待ってくださいました。自分の勝手な事情で、小川さんには本当に迷惑をかけてしまったのですが、私にとってはこの時のことが、本当にいい経験になっています。私は絵で食べていくことに焦るばかりに、自分を安売りしていること気づかずにいたのですが、小川さんの創作への真摯な態度に接して、自分が本来向かうべき道を見つめ直すことができました。

それから間もなくして、私は今の印刷会社に入ったのですが、そのこともこの時のことがきっかけになっています。印刷物は学生の時から何度も制作していたので、ある程度の知識は身についているつもりだったのですが、実際に本の装丁を手掛けてみて、自分が実際には何も知らずにいたかを思い知らされました。私はこの時いたく反省し、一度その業界の現場に飛び込んでしっかり勉強しようと思いつき、今の会社を選んだ次第です。その後はこの業界の常で、いつもいつも残業で忙しく振り回される毎日ですが、そこで経験できたことは、その後の自分にとってとても大きな意味を持つものでした。大変なことは多いのですが、その選択も間違いではなかったと、今は思うことができます。

けやきの話(その1)

武蔵野市の閑静な住宅街のまん中に、「けやき」と呼ばれる不思議な「場」があります。シックなレンガの外壁がやわらかな存在感を放つ建物で、敷地は季節折々の木々や花が彩る公園に囲まれています。「けやき」には毎日たくさんの人が訪れます。子供をつれたお母さん、読書しに来るお父さん、受験勉強に勤しむ予備校生や、あちこち走り回る子どもたち。ここには人の行き来が途絶えることはありません。皆の憩いの場として、まちづくりの拠点として、この「けやき」はたくさんの人たちに愛されているのです。

「けやきコミュニティセンター」は、武蔵野市のコミュニティ構想に基づき、1989年12月、武蔵野市吉祥寺北町5丁目に建設されました。いわゆる「公民館」が地方自治体によって設置・運営されるのに対し、「コミュニティセンター」は市民自身よって施設の管理・運営、行事の企画などを行う点に大きな違いと特色があります。

1971年に策定された武蔵野市の「コミュニティセンター条例」には、「コミュニティセンターは市民が新しいふるさと武蔵野市の豊かな町づくりをすすめるための基本的な施設」と明記され、自主参加、自主計画、自主運営を基本原則に、市民自身による市民のための施設として位置付けられました。
しかし計画当初は、理想としての「コミュニティ構想」とは程遠く、形ばかりの施設が順次建設・開館されていく実情にありました。当時は「コミュニティ」という言葉の概念も「市民自治」への理解もまだ日が浅かったのでしょう。行政側が考える公共サービスや施設のあり方と地域住民が求めるものとに隔たりが大きく、行政側と住民側とがぶつかりあう場面もありました。そのような状況にあって、「コミュニティ構想」をはじめて体現するかのように草の根的に活動していた「けやきコミュニティ協議会」が計画立案したセンターの建設は、準備会の設立から完成までに7年半もの歳月を要したのです。「建設計画の凍結」を市長が提示する深刻な局面もありましたが、現場レベルで時間をかけて協議を重ねることで次第に互いの信頼関係が築かれ、結果的に前例のない理想的な施設が出来上がりました。
 
地域にしっかりと根付き、まちづくりの拠点となっている「けやき」の存在は高い評価を得ています。その評判を聞き付け、遠方からの見学者も後を絶ちません。しかしそこへ至る道程の背景には、協議会設立〜建物づくりに関わった大勢の人たちの、言葉では言い尽くせない苦労、たくさんのドラマが秘められているのです。「コミュニティ構想」は、武蔵野市の肝入りの政策なのですが、実際にそれが地に足のついた形になるまでには、主体的に動いた地域住民たちの地道な努力が不可欠でした。
 
私がこの「けやき」の活動に関わるようになったのは、ちょうどセンター建設に向けての計画が具体的に動き出した時期、1987年のこと。私は成蹊大学に在籍する大学生でした。ある日、大学の先生から「地域のお祭りで餅つきをするから手伝いにこないか?」と、声をかけられました。――きっかけは、たったそれだけのことでした。東京でのひとり暮しを始めてようやく一年たった頃合いでした。当日、言われるままに会場の公園に顔を出してみると、朝早くからたくさんの人が忙しそうに走り回っていました。「この人、餅つき係だから!」と紹介されると、要領を得ないうちから準備作業に駆り出されます。開場すると途端に大勢の来場者でごったがえし、皆が一生懸命自分の役割に取り組くんでお祭りを盛り上げ、閉幕後の片付けが一段落した頃にはもう夕闇が迫っていました。私は一日中餅つきで汗を流し、くたびれきっていたのですが、爽やかな充実感がありました。
打ち上げの席であらためて周囲を伺うと、そこには自分の両親と同じぐらいの歳のおじさん、おばさん達ばかり。知り合いがいるわけでもありませんから恐縮して座っていると、周りの人達があたたかな笑顔であれこれ声をかけてくれます。そんな中で、この地域のコミュニティセンター建設の計画について語ってくれる人がいました。その語り口に、何か特別に惹かれるものがあったのでしょう。何か自分にもできることがあるのなら――と、そんな軽い気持ちからお手伝いをする約束をしてしまったのです。その約一ヵ月後には、なぜか「運営委員」という肩書きが添えられてたのですが...。
 
そして私と「けやき」との長いつきあいが始まりました。「けやき」での私の主な仕事は、地域に配付される「ニュース」をつくること。特定エリアの全戸配布、年齢や職業など不特定の人達が対象でしたので、様々な人の立場を尊重することを何より大事にしましたし、言葉の選び方やレイアウトにも細かな配慮が必要でした。いつもいつも締め切りに追われ、悪戦苦闘する毎日。何日も徹夜が続くこともありました。学校の単位を落とし、友人達からあきれられ、彼女とも疎遠になり、「いったい何をやってるのか」と親に怒鳴られたこともありました。それでも私は自分に与えられた課題への取り組みに必死でした。センター建設に向けての行政側との折衝の場は毎度のように紛糾し、毎日が戦いのような日々でした。



「どうしてそんなに一生懸命になれるのか」と、周囲の人達に何度も聞かれました。正直な話、この活動に関わり始めた当初、私自身に「地域」「コミュニティ」という考えは希薄でした。市民運動やボランティアと呼ばれるものに関心があったわけでもありません。ところが、活動を続けていく中で、「けやき」の提唱するコミュニティセンターを実現させることが切実に大事なことだと思えるようになりました。そして「けやき」のような市民活動のあり方――簡潔に言えば、自主精神と民主的な手続きに基づく地域自治への市民参画――が、とても珍しいケースだと理解するようにもなりました。年齢も社会的な立場も主義信条も違う人たちが、共通の夢を実現していくために議論を重ねて合意をつくり出しいく場面は、本当に素晴らしい光景でした。毎日ワクワクすることの連続でした。私は何より、そのことを楽しんでいたのだと思います。
私はこの活動を通じて、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれました。その人達から、私はたくさんのものを受け取ってきましたし、その受け取ったものに対して、恩や義理としてではなく、「人」としての当たり前の心情として、自分にできることを返していきたかったのです。
 
「けやき」の核にあるのは、「人」の素晴らしさなのだと思います。この地域が私たちにとってかけがえのないものだから、人との関わりがあたたかいから、そして何より人を生き生きと輝かせてくれるから、皆がこの「けやき」を愛するに違いないのです。

けやきの話(その2)

けやきコミュニティセンター完成までの経緯を一つの記録にまとめようという話は、センター開館まもない頃に始まっていました。困った時や、どうしたらいいのかわからなくなった時、私たちは「けやきの原点を大切にしよう」の合い言葉で、道を拓いてきました。「けやきの精神」とか「けやきのこころ」と言ってみたりするのですが、その中身はいったいどんなものなのか、いったい何にこだわってきたのか、どうしてがんばれたのか、見つめ直していく必要を感じていたのです。想いは募るもののなかなか実現できないまま、センターの開館からすでに4年が経っていました。五周年を祝う催しの企画の一つとして、ようやくこの本の制作が開始され、私は途中から編集委員に加わりました。

およそ1年の準備期間があったのですが、途中何度も作業が頓挫する経緯もあって、その完成までの道程は困難を極めました。今日のようにパソコンによるDTP制作環境が整っていれば、あれ程苦労せずに済んだのですが、当時はそんな便利なものもなかったので、お粗末なワープロとコピーを駆使して切ったり貼ったりのすべて手作業でした。それも200ページに及ぶ膨大な量のテキストと資料。執筆や資料整理は皆で分担したのですが、印刷原本となる版下制作作業は、自分一人で受け持ちました。出稿前の2週間はまさに修羅場と言える状況。勤めの印刷会社の仕事も年末の進行で夜遅くまで残業があって、その足でセンターに向かい徹夜で作業を続け、少しだけ仮眠をとってまた会社に行ったりという無茶苦茶な毎日・・・。そんな苦労もあって、五周年の式典当日に「けやき並木につづく道」と題した記念冊子が製本所から届いた時は、言葉では言い表せない程の喜びがあふれました。それまでの苦労がいっぺんに吹き飛ぶ瞬間でした。
 
しかし、その本をつくって間もなくして、私は「けやき」の活動から離れてしまいました。武蔵野市外へ引っ越したのをきっかけに、しばらく「けやき」から距離を置きたい気持ちになったのです。なぜそんなことを考えたのか......当時の自分の心境は複雑でした。本をつくりながら「けやき」のあゆみを整理するうちに、私にとっては自分自身を見つめ直すきっかけにもなっていました。そして「人のため」「地域のため」と言いながら、自分自身の未熟さ――「学生」という立場と周囲の好意に甘えてしまい精神的に自立できていなかったこと、すべて中途半端にしか物事に取り組んでこなかったこと、自分自身の根っことなるものが何もないこと――に気づいて、なんだか急に後ろめたい気持ちになってしまったのでした。「けやき」を離れることは、私にとって本当につらかったのですが、少し距離を置くことで今の自分に必要なことが何なのか、ゆっくり考えられると思えました。

 
 

それから5年の月日が流れ、1999年の十周年を祝う式典には「お客さま」の一人として招いていただきました。会場は大勢の人で賑わい、私の知らない顔もずいぶん増えていました。10年経っても「けやき」の輝きは衰えません。人の輪が広がり、ますます生き生きとその輝きを増しています。懐かしい方々とも再会でき、本当に心あたたまるひとときでした。そして私もその「けやき」の一員でいられることが、あらためて誇らしく思える瞬間でもありました。
 
「けやき」での経験が、自分にどれだけ深い影響を与えたかを、人生の折々で気づかされます。「私」という世界をどこまで広げられるか、自分の思い込みの領域を踏み越えてどれだけ広い範囲を身近なこととして捉えられるか、思いやれるか、愛せるか......知らず知らずのうちに、そんな問いを繰り返し投げかけられ、物事の考え方を鍛えられたことが、自分にとってかけがえのない財産となって根付いているのだと感じています。
 
人それぞれに「地域」への想いがあります。同じ土地に長く住んでいたって、そこに何の愛着も持たない人もいるでしょう。しかしたとえどんなに離れていたって、ある同じ想いで人と人とが繋がっていられたなら、そこはかけがえのない「ふるさと」であり続けるのだと思います。「ふるさと」は、本当は所在のないもので、しかしそれ故、追い求めていくものに違いありません。そこに「ある」のではなく、「つくる」ものに違いないのですから。

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