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裁かるるジャンヌ

クルスマスの日、本郷中央教会での「聖なる夜の上映会 裁かるるジャンヌ」を観に行ってきました。「裁かるるジャンヌ」は1928年制作のサイレント映画。監督はカール・ドライヤー。映画史上とても評価の高い作品です。

私は今まで未見だったのですが、ジャンヌ・ダルクとして兵を従えて行進するシーンも途中挿入されるのかと思ったら、そういう勇ましい場面は一切なく、閉じられた空間の中での裁判のシーンが延々と続きます。背景には余計なものを一切置かず、殺伐とした無機的な空間の中で、登場人物たちの様々な表情を克明に映し出していくのです。そしてジャンヌ役のファルコネッティが時折見せる恍惚とした表情は、観るものを圧倒します。おそらく「演技」という領域を超えているのでしょう。崇高な信仰心によって導かれる光の世界と、どうしようもなく醜い人間の心の闇。そのコントラストがモノクロームの映像の中に、鮮明に、残酷に、描かれていました。

クライマックスの処刑シーンに至ってもカメラの視線は徹底してクールで、感情移入するドラマティックな映画ではないように私は感じたのですが、周りではすすり泣く声も聞こえたので、クリスチャンの方にはまた違った見方があるのだろうなぁと思ったりもしました。そもそもジャンヌ・ダルクのことを、イギリス人はどう思っているんだろうか?って考えてみたり。信仰のことはさておいて、研ぎすまされた映像美と、作品全体にわたっての何とも言えない緊張感が、強烈に印象に残る作品でした。

この映画に素晴らしい演奏を加えてくれたのは、ピアニストの柳下美恵さんと、映像作家(他、いろいろやってるそうです)のジャン ピエール テンシンさん。柳下さんは数年前からふとしたご縁での知り合いですし、テンシンさんは私の友人の友人で、本郷の古い由緒ある教会、そして「裁かるるジャンヌ」・・・という不思議なつながりのあった今回の上映会。今回こういう形でこの映画を観れたのはとても幸運なことでした。

★柳下美恵さんのホームページ http://www.ltokyo.com/yanasita/miespick.html

映画 Gedo Senki

絶対観ないと決めていたのですが、観てしまいました「映画 ゲド戦記」・・・。

「映画 ゲド戦記」に対して、私は、制作発表の当初からポスターや予告編で見る絵もコピー文も全てに違和感を感じましたし、その後追々知ることになった製作に至った経緯を聞くにつけてうんざりした気分になりました。どう考えてもこれは「ゲド戦記」ではないし、良い作品になるわけがないと思っていました。原作に思い入れの深い一人として、絶対に観る気はなかったのですが、その後いろんな場面でこの作品の是非についての議論されるのを見ていて、だんだん興味が湧いてきたのです。

とにかく作品を実際に見ないことには何も言えないので、いろんな先入観をいったんリセットして(完全には無理ですが)、とにかく見てみようって思ったのです。
で、率直な感想ですが・・・思っていた以上に、作品として内容の悪いものでした。

原作と違うとか、表現が拙いとか、そういう意味でだけダメと言っているわけではないのです。映画と原作が違うのは仕方ないことですし、場合によっては大胆な組み替えをしてオリジナルに近い作品にしてしまう場合だってあるでしょう。でもそれは制作者側に、作品の解釈と表現の意図が明確にあることが大前提だと思います。「映画 ゲド戦記」には、そういったものがまるで感じられません。原作に対する誠意も、まったく見受けられません。そして作品の内容自体に、たくさんの問題がある作品だと思いました。

この映画について、原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンから、自身のHPで公式なコメントが出ています。翻訳のページにもリンク貼ってみますので、ぜひ読んでみてください。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

↓以下、かなり批判的な私の勝手な感想ですので、ご了承ください。

■何故観ようと思ったか
公開から1ヶ月以上が経ちますが、当初から酷評の嵐でした。批判してる人の大半は「原作と違う」とか「これはジブリアニメじゃない」「宮崎駿の作品に足許に及ばない」とかいう内容のもので、ピントの外れた話でした。その後にわかに擁護する人達が増えていって(自然にか、戦略的にかはわかりません)、お互いが激しく議論する場面もたくさん目にしました。不思議に思ったのは擁護派の人達で、普通に「面白かった」という人はもちろんいるのですが、特別に感情的な思い入れでもってこの映画を絶賛する人達が現れたり、批判に対する批判を、声を荒げて叫ぶ人達が多数現れたことでした。そういう人達がわざわざ原作のファンたちが嘆き悲しんでる場にまで踏み込んでいって、持論を展開する場面を見て、これはちょっと異様なことだなって思いはじめたのでした。そんな矢先、ル・グウィン本人が自身のホームページで、この映画の対する公式なコメントを発表し、そのあとに追記の形で掲載された「ある日本の投稿者から」という文章を読んで、なるほどなーと、考えさせられました。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse#l9

いったいこんなにも議論の対象になる「映画 ゲド戦記」はどんなものなのか、だんだん関心が芽生えて来ました。とにかく作品を観ないことには何もわからないので、勇気を持って観てみることにしたのです。
私は最初に、作品として「悪い」と言いましたが、いっさいの先入観外して観ればそこそこのレベルの普通の娯楽映画だと思います。でも「ゲド戦記」というタイトルを掲げ、ジブリブランドを全面に押し出し、これだけの大作の扱いで公開された映画としては、やっぱりたくさん欠点のある映画だと言わざるを得ません。


■作品のテーマについて
まず、テーマもストーリーも、まったく納得できるものではありませんでした。
せめてこの映画がまったくのオリジナルエピソードとして、原作から孤立してくれたらまだ観られなくもない気がしますが、でもやっぱりどんなに大目に見ても、この映画は原作世界の精神からからあまりに大きく逸脱しています。この「映画 ゲド戦記」は、まぁ、簡単に言ってしまうと、勧善懲悪を軸にした少年の心の成長の物語ということなんでしょうか。そこにいろんな要素を詰め込んではいますが、そのほとんどが未消化、未解決のうちに作品が終わってしまっています。映画の冒頭で、「世界の均衡が崩れている」という大風呂敷を広げてみせますが、それで結局その問題はどうなったのでしょうか?世界のどこかに、悪玉の親分がいて、そいつをやっつければすむ問題なのでしょうか?そんな簡単なことで、世界は、人は、救われるんでしょうか?償いは後ですれば、人生はどうにでも清算できるものなのでしょうか?
結局は自分や自分が愛する対象を脅かす存在をなくしてしまえば世界は平和になる・・・という安直な結末の付け方が、むしろ危険な考え方にさえ、私は思えてきます。

少年の心の成長ドラマに目を移しても、その過程がまったく描けていません。アレンとテルーの心の溝を取り払ったのは、テルーが草原で歌う独唱(しかも曲の2番まで完唱!)だけだし、アレンが自分の内側の闇の部分を受け入れ、自分を取り戻すのも、テルーから背筋を正される言葉を言われただけ。まったく説得力がありません。分裂していた「自分の影」って何だったの?って問題もまったく説明も解決もないし。映画の中で見る限り、「影」って結構いい奴じゃん、って私は思ったし(笑)。


今回の映画は3巻を中心にしたにも関わらず、1巻の「影との戦い」の要素を入れたり、4巻の登場人物を引っぱって来たりしていますが、そのことについて、宮崎吾郎監督はこんな風に語っているようです。

宮崎吾郎:「初期のゲド戦記は、特に1巻『影との戦い』に顕著ですが、人の心の中の光と闇の均衡が云々、という話です。ただ、確かにそれが必要な時代があったのかもしれないけれど、今はそれが行き過ぎて神経症的になってしまう人がいっぱいいる。そこで面白かったのが、初期から時期の空いた4巻以降はだんだんそういう内面テーマを離れ、変わり映えしない日常を生活者として暮らす中にこそ大事なことがある、という方向に変わっていくんですね。改めて読んでみて、今はそっちの方が必要なんじゃないかと感じたんです。」(e-hon news 2006 Aug. 4号)

ここで監督自身が語ってることは、監督がどういう風にゲド戦記を読んだかが伺えて、大変興味深いです。 「今はそれが行き過ぎて神経症的になってしまう人がいっぱいいる」と言っていますが、そうではなくて、そういった心の葛藤を経過しないで大人になってしまう人がたくさんいるのが問題なんじゃないでしょうか。心の葛藤を後回しにして、単に生活の中での心の豊かさを求める(“ロハス”とかってやつでしょうか?)のは、ただの思考停止状態です。

「生きる根拠を見いだすのが難しくなった時代に、自分を取り戻して、まず一個の人間として生活してみることが大事」というメッセージを託したこの作品のテーマ自体は、悪いものではないと思います。原作とはあきらかに違うテーマ設定であっても、それはそれで良いと思います。でもそのテーマを語るための作品としての一貫性を、決定的に欠いてると思います。全ての辻褄は、「映画はエンターテイメントであること」という、この監督の1点の信念によってつなぎあわされてるとしか思えません(その監督の信念はこういった文章から垣間みられます→監督の日記)。もちろんエンターテイメントを志向することが悪いわけではありません。それはその作家の資質なのですから。でも作品の根拠がエンターテイメントという足場にしかなくて、作品のテーマに基づいた論理がほとんど見いだせなかったのは残念なことでした。


■オリジナリティについて
「これはジブリアニメじゃない」「宮崎アニメじゃない」という批判は、私は基本的に見当違いだと思っていました。親子であれど、宮崎駿と宮崎吾郎という人間はまったくの別物だし、同じスタジオで作るからといって、同じ内容、同じ資質を求めるのは間違いだと思ったからでした。当たり前の話です。でも実際に作品を観てびっくりしたのが、宮崎駿作品をなぞったようなシーンがあまりにも多いことでした。ジブリ作品へのオマージュ、というにはあまりにも表現がストレート過ぎて、稚拙で、意地悪な見方をすれば「これはジブリ作品のパロディ集?」と思えてしまうくらいでした。ジブリアニメを期待して(あるいは勘違いして)劇場に足を運んでくれた人への、ある種のサービスのつもりなのかもしれませんが、こういうことを意図的にやってるからには、「これはジブリアニメじゃない」「宮崎アニメじゃない」という文脈で批判されるのは仕方ないことだと感じました。

もう少し監督自身のオリジナリティを垣間みさせてもらえたらと願ったのですが、私にはそれは見つけられませんでした。実際に「映画 ゲド戦記」を観てみて、一番がっかりしたのが、この点でした。今回は商業的な必然があったのだとしたら、次は宮崎吾郎という作家性を、きちんと示してくれる作品を見せてくれることを期待したいです。


■物語ということについて
ずっと以前に「ディズニーの功罪」と題された論文(アメリカの図書館司書経験のある方ディズニー絵本がいかに有害であるかを論じた文章)を読んだのですが、図書館で毎日たくさんの子供たちと接してるなかで、ときどき子供たちから涙の訴えを聞くのだそうです。「本の中の世界ではみんな最後は幸せに生きていて、世界は平和になるのに、私にはどうしてこんなに悲しいことがずっと続くの?」・・・と。そんな訴えに、私たちはどんな言葉を返せるでしょう・・・。
安直な構造の物語を用意して、甘い誘惑でそこに人々を迷い込ませるのは、大変重い罪だと思います。心に豊かさをもたらす、あたたかくて優しい物語は、人間にとって必要な糧です。でもそこから現実の世界に立ち向かっていける何かしらの手がかりを、物語を紡ぐ人達は自身の作品世界の中にきちんと責任を持って用意すべきだと、私は思います。

原作のゲド戦記は、当初3部作まででストーリーは完結していて、ゲドとアレンはさいはての島まで旅をし、ゲドの魔法使いとしての全ての力を出し尽くすことよって”両界の扉”を閉じさせることができ、世界は“均衡”を取り戻すことで幕を閉じます。しかし現実には相も変わらず世界は不安定で、戦争と殺戮は繰り返され、身近な場面でも残酷な暴力が耐えません。そのことに目をそらさず、「ゲド戦記」という作品な中でも作者自身が向き合っていく意志によって生み出されたのが、ゲド戦記の第4巻「帰還」だったのだと思います。物語世界からの現実の世界への「帰還」だったのだと、私は解釈しています。ですので、「帰還」の内容は非常に重い内容で、現代の現実の問題を色濃く反映しています。テルーは「映画 ゲド戦記」では顔に痣があるだけの表現になっていますが、原作のテルーは、幼い時に両親とその仲間の男たちから残虐な暴力を受け続けレイプされた上に火に放り込まれて瀕死の重傷を負ったため、顔半分はケロイド状に焼けただれ、片手は指がくっつき鍵爪のような状態になっている設定です。原作の通りにやってくれとは言いませんが、原作の精神を、ほんの少しでも汲んでくれたら、まずあんな作品にはなっていなかったと思うのです・・・。

それにあの映画の中でのゲドやテナーは、いったいなんなんでしょう?ゲドは大賢人ということになってるけど、それを感じさせるシーンはまったくなかったです。ゲドとテナーが再会するシーンは、特別な意味があるはずなのですが、あれじゃ、港々にいる女のところに通ってるただのオジサンではないでしょうか。フーテンの寅さんがまた旅から帰って来て、「もぉ、お兄ちゃんはしょうがない人なんだから・・・」といって受けいれるサクラの役がテナーですかね。二人で「ゲド」「テナー」って呼び合ってるシーンでは、私は椅子からズルって落ちてしまいましたよ。本当に。


■作画や演出について
作画については、色が暗すぎるとか、繊細でないとか、絵が下手とか、いろいろ批判が多いのですが、私は、まぁそこまで悪くはないと思います。場面場面でムラがありますが、そこそこのレベルを保ってると思います。経験のない監督を据えたスタジオの職人たちの苦労は大変なものだったと察しますが。でもそれでも一定のレベルを維持できたのは「スタジオ・ジブリ」のスタッフたちの底力だと思います。

ただ、生活描写などの細やかな演技がとても下手でしたね。食べものを食べるシーンって、とても大事だと思うのですが、全然美味しそうに見えないのが残念でした。ハムかパンかさえ見分けがつかなかったり、スープとか泥のようだったり。「ハイジ」で焼いたチーズをパンにのせて食べるシーンなんて、今見ても「わーっ!食べたい!」と思わせるんですけどね。畑仕事のシーンとかも、まったく魅力ないし。そもそも畑仕事に出て行く動機付けが描かれていません。

背景の美術についても、色が濁りすぎてるとかいろいろ言われてるようですが、私はあれはあれでいいと思います。ただ、物語の世界をほとんど絵だけで描ききってるだけで、撮影の工夫とかで奥行き感を表現してるようなシーンはほとんどありませんでした。ポートタウンの全景も夕焼けのシーンも、美しいのですが絵だけの世界なので、私は何の感慨も湧かなかったです。クライマックスの舞台となるお城も、工夫は感じられますが空間が描けていないし、城全体の構造としての説得力がありません。「カリオストロの城」や「長靴をはいた猫」を意識してるのはわかるのですが、平凡なものだったと思います。階段を駆け上がるシーンなんかも、止まった絵の上を人物が動くだけなので、臨場感とかまるで伝わってきません。
些細な指摘ですが、そういう部分が大事な「演出」なのだと、私は思います。


■総括として
繰り返し言いますが、私は原作と「映画 ゲド戦記」が別物であることだけに批判の根拠を置いていません。ただ「ゲド戦記」というタイトルを掲げる以上は、それなりに制作者としての誠意を示して欲しかったのですが、それが微塵も感じられなかったのは残念なことでした。そしてその理由が、監督の力量不足であるとことではなく、明確な意図でもってねじ曲げられたことが、私にとっては想像以上にショックな出来事でした。
私にとって、そして多くの人にとっても、「ゲド戦記」は特別な本です。読んでみたら面白かった、という程度のものではなくて、人生に少なからぬ影響を与え、ゲドたちの物語の存在が今も自分の内側に生きていると感じられる、そういう本です。最初の本が出てから40年もの月日が流れ、その本とともに生きてきた作者と読者がいるのです。そのことを軽んじて欲しくなかったと訴えずにはいられません。

まぁ、いろいろ書きましたが、こうやっていろんな人に「一言いわせたくなる」作品であることは確かですし、そういった意味ではユニークな作品だったと思います。テーマについても、私には安直すぎてまったく受け入れられませんが、あのくらい単純にしてストレートな言葉にした方が、現代の若い人には伝わりやすいのかもしれません。ただ、そうやって単純なメッセージを明確な言葉にできる根拠が、どれだけあるのかは大いに疑問ですが。

ひとつはっきり言えることは、単純な言葉と、単純な構造のメッセージしか、人が受け取れなくなっているのだとしたら、それは一つの作品の善し悪しを論じるとは別の次元で、深刻な事態だと思うのです。そのことを考えてみたくて、こうやって無駄に長い文章書いてみました。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。機会ありましたら原作の「ゲド戦記」を手に取っていただければ幸いです。


■おまけ
「映画 ゲド戦記」の感想から脱線しますが、この映画観て、私は「アリーテ姫」というアニメーション作品のことを、ふと思い出しました。「アリーテ姫」は小粒ながらとてもよくできた作品です。映画「ゲド戦記」とはいろんな意味で——作品のテーマもスタンスも、作画のレベルも、アニメーションの技法も、そして作品の質そのものが!——対極にあるように感じたのです。あまり知られていない作品ですが、私はもっと高く評価されて良い作品だと思っています。映画「ゲド戦記」の上映館の、ほんの数パーセントでもいいからこの作品の上映に当ててあげた方がいいと、私は思うんですけどね。レンタル屋さんとかでたまにみかけるので、ご興味ある方ぜひご覧になってみてください。
「アリーテ姫」公式サイト→http://www.arete.jp/arete/

ヴィレッジ

B0001.jpg先週wowowで放送された「ヴィレッジ」という映画がちょっと気になって、録画しておいたのをさっき観てみた。ホラー仕立てのサスペンスもの?と思って観てみたら、思っていたより丁寧につくられてる映画で結構面白かった。
予告編では「驚くべき恐ろしい謎がある!」っていうような大げさなフレコミだったけど、そういう話では全然なくて、淡々とした展開と地味なストーリー。謎めいた森のなかで村を営み共同生活する人々。中世の村のような生活スタイルで、ユートピア的な世界をつくり出していたが、人が人を想う気持ちの高まりによってそれがほころび始め・・・・。静かな、けれども心の奥から込み上げてくる、情熱的な愛の物語。賛否両論分かれそうな内容だけど、私は結構気に入った作品でした。

人生で一番大切なもの


大げさなタイトルですみません。映画の話です。
TVでたまたま観て気に入った映画で、「シャーロット・グレイ」という作品があります。第二次世界対戦下のフランスとイギリスを舞台にした物語。カメレオン女優と言われるほど多彩な演技に定評のある、ケイト・ブランシェットがヒロインを演じています。

さて、この作品の中で、英の諜報機関で訓練を受けたヒロインが、最終テストとしての問答試験を受けるのですが、その中で非常に印象に残る…というか、この作品のテーマの中核をなす言葉が出てきます。

試験官の質問:「次の三つのうちで一番大切なものは? 信頼、希望、愛情」

さて、みなさんは何と答えますか? ちなみにこの劇中でヒロインは「希望」と答えていました。その答え方が、作品全般に貫かれていて、クライマックスでのヒロインの行動に私は感銘を受けずにはいられなくて、観終わった後この作品がとても好きになりました。そしてその後すぐに、DVDまで買ってしまいました。

私は映画を観ながら、その「三つのうちで一番大切なもの」という質問のことを、ずっと自分に照らし合わせて考えていました。そして考え至るのは、私にとってのその答えは「信頼」なんだと思うのです。自分が人生に求めるもの、生涯の仕事に求めるもの、愛する人に求めるものは、そういうものに集約される気がします。どの選択が良いとか悪いとか、そういう話ではなくって、たぶん自分はそういう傾向なのでしょう。そう考えると、自分のことがとてもわかりやすい。人が自分の人生に求めるものについて、シンプルな設問の立て方として、「信頼、希望、愛情」という分類は面白いなぁ、と思うのですが。皆さんはどう思いますか?

http://www.uipjapan.com/charlotte/

ジム・ヘンソンの伝説

 

STUDIO VOICEの10月号に「ジム・ヘンソンの伝説」という特集記事が掲載されました。最近はその名前をあげても、あまり反応がないのが残念ですが、ジム・ヘンソンは70〜80年代に活躍した偉大なマペット・クリエイター&映像作家です。私の最も敬愛する作家の一人。80年代に大きな潮流をつくった「SF&ファンタジー」系の映像作品に愛着を持った人なら、ジム・ヘンソンの名前を知らない人はいないでしょう。そのくらいに偉大な、影響力のあるクリエイターでした。単に「偉大な」というのではなくって、彼がつくるファンタジックな映像世界、ユニークなマペットたちは、とにかく魅力に溢れていて、愛さずにはいられない存在だったのです。

ジム・ヘンソンの仕事として、もっとも有名な、誰もが知ってるキャラクターは、「セサミストリート」の愛くるしいマペットたち。そして「スターウォーズ」のヨーダにリアルな動きと特殊撮影の効果を与えたのもジム・ヘンソンの功績。その後も「ダーククリスタル」や「ラビリンス」等の本格的なファンタジー映画、残酷で不可思議なお伽噺を題材にした「ストーリーテラー」など、良質なオリジナル作品を数多く生み出しました。ジム・ヘンソンの作品はたくさんの人を魅了し、愛され、評価を高め、皆が注目し大きな期待を集めていたその矢先・・・彼は突然この世を去ってしまったのでした・・・・。その時の悲しさは、ちょっと言葉になりません。今思い出しても、胸が痛むのです。

ジム・ヘンソンが亡くなって、今年で15年。その後しばらく彼の名前を聞く機会は少なかったのですが、最近にわかにジム・ヘンソンの評価が高まってきたようです。「ダーククリスタル」「ラビリンス」のDVDが再発されたり、雑誌で特集記事が組まれたり。近頃のファンタジーブームが契機となって、ジム・ヘンソンの存在がクローズ・アップされ、彼が遺したダーク・ファンタジーの世界が時代を先駆けた優れた作品であったと評価されるのは、ファンとしてとてもうれしいことです。やっと時代が追いついたのかなぁ、とか思ったり。

今私の中でも、ジム・ヘンソン熱が急上昇中。夜な夜な彼の映像を観て楽しんでます。特殊効果に限って言えば、確かに今の時代から見ると拙い印象は拭えないのだけど、その拙さがまた映像に独自の魅力を添えているようにも感じるのです。CGではとうてい及ばない、手作りのあたたかさと、職人的なこだわりと創意工夫が結実した表現の力強さが、彼の映像からはひしひしと伝わってくるのです。少し思い入れが過ぎるのかもしれませんが。

※「ダーククリスタル」「ストーリーテラー Vol.1&2」は廉価版のDVDが出ています。
※ジム・ヘンソン・カンパニーの手で、現在「ダーククリスタル2」の制作が進行してるそうです。楽しみですね!

セルゲイ・ボドロフ監督「コーカサスの虜」を鑑賞

先日の日曜、渋谷に出たついで、特に目的もなかったのだけど、HMVのDVDのコーナーに立ち寄った。今日は絶対買わないと思って心に決めてお店に行ったのだけど、やっぱりダメですね。物欲を抑えきれず、映画のDVDを3本買ってしまいました。

この日買ったのは、セルゲイ・ボドロフ監督の「コーカサスの虜」、サリー・ポッター監督「耳に残るは君の歌声」、私の大好きなニキータ・ミハルコフ監督の「光と影のバラード」(デジタル・リマスター版)。後の2本はもう何度も観てる作品なのだけど、「コーカサスの虜」はタイトルを知ってただけで未見の作品でした。以前「ベアーズ・キス」という映画をwowowでたまたま観てとても印象に残って、それと同じ監督と知って、ただ勢いで買ってしまいました。
で、昨日疲れて家に帰ったはずが、朝の4時に目が覚めてしまい眠れなくなったので、この作品を観てみることにしました。ロシアとチェチェンの間の紛争を題材にした重いテーマを扱っているということだったので、疲れてる時にそういうものを観るのはどうかと思ったのだけど、まぁ、途中で寝てしまったらそれはそれでいいかなって思って。でも良い意味でその予想は見事に覆されました。とにかく素晴らしい映画! 最後まで夢中で観てしまいました。ラストの悲しい結末には思わず胸が苦しくなってしまうのですが、何とも言えない余韻がずっと後まで残ります。そして、いろんなことを考えさせられる作品でもありました。

毎日TVでは、様々な地域での戦争、紛争、報復行為、殺戮の映像が繰り返し映し出されます。でもそういう映像を見ていても何故かリアルなものとは感じられず、戦争について、人と人との争いについて深く考える契機を持ち得ません。それは自分自身の意識の持ち方の問題でもあるのですが、メディアの報道のあり方の問題でもあり、なかなか自力では乗り越えていけない難しい問題が横たわっているのだと思います。ふとすると、考えること自体あきらめてしまいそうになります。けれどもこういう優れた作品に触れたとき、物事の奥底にある大事な問題の本質を、やっと少しだけ垣間みることができる気がします。

「どうしたら戦争をやめられるのか、私たちにはわからない。戦争を始めることは簡単だが、終わらせることは難しい。人を愛することより、殺すことの方が簡単なのだ。でも、私たちは努力すべきだ」——これはDVDのパッケージに綴られていた監督の言葉。最初見た時は気にかかる言葉ではなかったのだけど、映画を観終わった後、あらためてこの言葉を読み直してみると、「でも、私たちは努力すべきだ」の言葉に、特別な想いが込み上げてくる。確かなものは何もないのですが、この映画の感動の余韻の中で、私はそんなことをぼんやり感じました。
http://www.showtime.jp/info/cinema/00012/

ところでこの映画、映像の雰囲気・質感が独特で、私は観始めてすぐに「あぁ、すごく親しい感じがする」という気分で、とてもうれしくなってしまいました。古き良きソビエト映画の雰囲気を引き継いでいる作品であることはよくわかったのですが、それにしてもこの感覚はなんだろう? すごく自分好みな映画の肌触り・・・と思いながら映画を観ていたのです。で、DVD特典のスタッフキャストを見てびっくり。撮影監督がなんと、パーヴェル・レベシェフ。ミハルコフ監督の常連のスタッフでした。「あぁ、だからなんだ〜」と一人で合点してしまいました。そういえば主演の一人は「太陽に灼かれて」のオレグ・メンシコフだし、村の可愛らしい女の子はエレーナ・ソロヴェイとなんとなく面影が似てる気がするし。なんだか作品そのものがミハルコフ作品(「黒い瞳」以前のもの)へのオマージュのようにも思えてきます。ちょっと偏った見方かもしれませんが。

この日買ったDVDはなぜかみんなロシアにつながりのものでした。自分ではそういう意識はまったくなかったのですが。たまたま気分がロシアに向いてたのかもしれませんね。

オネーギンの恋文

onegin.jpg深夜のNHK-BSで「オネーギンの恋文」というイギリス映画をやっていた。まったく前知識なしに、途中からぼんやり見ていたのだけど、じわりと心に響いてくる、なかなかいい映画でした。主演はレイフ・ファインズ、リヴ・タイラー。監督はレイフ・ファインズの妹、マーサ・ファインズ。ロシアの文豪プーシキンの原作を映画化したもの。
作品の中で印象的だったのが、主人公=高慢で身勝手な貴族の男が、ヒロイン=田舎育ちではあるが才女で情熱的な女に、本を貸すシーン。ヒロインが「何か本を貸してくださらない?」と男に頼むと、「そうだ、いい本がある。新しく入ったばかりの本だ」といって差し出すのが、ルソーの「新エロイーズ」だったのだ。「新エロイーズ」はルソーの著作の中でもかなり異色な作品。貴族令嬢の娘と、家庭教師との間で交わされる書簡(=恋文)の形式で綴られた恋愛小説。そしてかなり風変わりではあるけれど、ルソーの思想の要が実はそこにあるのではないか、と評されていたりもする。ルソーという人は本当に面白い人で、言ってることがいつもバラバラでとりとめがなく、矛盾だらけ。でもバラバラのような論説が全体としてはなんとなくつながっていて、ちゃんと筋道が通っている・・・という不思議な思想家。だからこそ魅力があって、多くの人を魅了する。私も一番好きな思想家。たくさんの影響を受けた。
昨日友人と飲みながら話をしてるうちに、ひさしぶりにふと、ルソーの名前が出たりした。その後家に帰ってテレビをつけたら、またルソーの名前と出会ったので、なんだかとても不思議な気分。またルソーの本を読み返してみたくなった。途中で挫折してしまった「新エロイーズ」。もう一度チャレンジしてみようかな。

どうでもいいけど、リブ・タイラーって、やっぱりきれいですね。特別好きな顔立ちの女優さんではないのだけど、映画の中ではひときわ美しく輝いて見えます。独特な雰囲気、魅力を持った女優さんだと思います。

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