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裁かるるジャンヌ

クルスマスの日、本郷中央教会での「聖なる夜の上映会 裁かるるジャンヌ」を観に行ってきました。「裁かるるジャンヌ」は1928年制作のサイレント映画。監督はカール・ドライヤー。映画史上とても評価の高い作品です。

私は今まで未見だったのですが、ジャンヌ・ダルクとして兵を従えて行進するシーンも途中挿入されるのかと思ったら、そういう勇ましい場面は一切なく、閉じられた空間の中での裁判のシーンが延々と続きます。背景には余計なものを一切置かず、殺伐とした無機的な空間の中で、登場人物たちの様々な表情を克明に映し出していくのです。そしてジャンヌ役のファルコネッティが時折見せる恍惚とした表情は、観るものを圧倒します。おそらく「演技」という領域を超えているのでしょう。崇高な信仰心によって導かれる光の世界と、どうしようもなく醜い人間の心の闇。そのコントラストがモノクロームの映像の中に、鮮明に、残酷に、描かれていました。

クライマックスの処刑シーンに至ってもカメラの視線は徹底してクールで、感情移入するドラマティックな映画ではないように私は感じたのですが、周りではすすり泣く声も聞こえたので、クリスチャンの方にはまた違った見方があるのだろうなぁと思ったりもしました。そもそもジャンヌ・ダルクのことを、イギリス人はどう思っているんだろうか?って考えてみたり。信仰のことはさておいて、研ぎすまされた映像美と、作品全体にわたっての何とも言えない緊張感が、強烈に印象に残る作品でした。

この映画に素晴らしい演奏を加えてくれたのは、ピアニストの柳下美恵さんと、映像作家(他、いろいろやってるそうです)のジャン ピエール テンシンさん。柳下さんは数年前からふとしたご縁での知り合いですし、テンシンさんは私の友人の友人で、本郷の古い由緒ある教会、そして「裁かるるジャンヌ」・・・という不思議なつながりのあった今回の上映会。今回こういう形でこの映画を観れたのはとても幸運なことでした。

★柳下美恵さんのホームページ http://www.ltokyo.com/yanasita/miespick.html

映画 Gedo Senki

絶対観ないと決めていたのですが、観てしまいました「映画 ゲド戦記」・・・。

「映画 ゲド戦記」に対して、私は、制作発表の当初からポスターや予告編で見る絵もコピー文も全てに違和感を感じましたし、その後追々知ることになった製作に至った経緯を聞くにつけてうんざりした気分になりました。どう考えてもこれは「ゲド戦記」ではないし、良い作品になるわけがないと思っていました。原作に思い入れの深い一人として、絶対に観る気はなかったのですが、その後いろんな場面でこの作品の是非についての議論されるのを見ていて、だんだん興味が湧いてきたのです。

とにかく作品を実際に見ないことには何も言えないので、いろんな先入観をいったんリセットして(完全には無理ですが)、とにかく見てみようって思ったのです。
で、率直な感想ですが・・・思っていた以上に、作品として内容の悪いものでした。

原作と違うとか、表現が拙いとか、そういう意味でだけダメと言っているわけではないのです。映画と原作が違うのは仕方ないことですし、場合によっては大胆な組み替えをしてオリジナルに近い作品にしてしまう場合だってあるでしょう。でもそれは制作者側に、作品の解釈と表現の意図が明確にあることが大前提だと思います。「映画 ゲド戦記」には、そういったものがまるで感じられません。原作に対する誠意も、まったく見受けられません。そして作品の内容自体に、たくさんの問題がある作品だと思いました。

この映画について、原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンから、自身のHPで公式なコメントが出ています。翻訳のページにもリンク貼ってみますので、ぜひ読んでみてください。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse

↓以下、かなり批判的な私の勝手な感想ですので、ご了承ください。

» »【続きを読む 「映画 Gedo Senki」】

ヴィレッジ

B0001.jpg先週wowowで放送された「ヴィレッジ」という映画がちょっと気になって、録画しておいたのをさっき観てみた。ホラー仕立てのサスペンスもの?と思って観てみたら、思っていたより丁寧につくられてる映画で結構面白かった。
予告編では「驚くべき恐ろしい謎がある!」っていうような大げさなフレコミだったけど、そういう話では全然なくて、淡々とした展開と地味なストーリー。謎めいた森のなかで村を営み共同生活する人々。中世の村のような生活スタイルで、ユートピア的な世界をつくり出していたが、人が人を想う気持ちの高まりによってそれがほころび始め・・・・。静かな、けれども心の奥から込み上げてくる、情熱的な愛の物語。賛否両論分かれそうな内容だけど、私は結構気に入った作品でした。

人生で一番大切なもの


大げさなタイトルですみません。映画の話です。
TVでたまたま観て気に入った映画で、「シャーロット・グレイ」という作品があります。第二次世界対戦下のフランスとイギリスを舞台にした物語。カメレオン女優と言われるほど多彩な演技に定評のある、ケイト・ブランシェットがヒロインを演じています。

さて、この作品の中で、英の諜報機関で訓練を受けたヒロインが、最終テストとしての問答試験を受けるのですが、その中で非常に印象に残る…というか、この作品のテーマの中核をなす言葉が出てきます。

試験官の質問:「次の三つのうちで一番大切なものは? 信頼、希望、愛情」

さて、みなさんは何と答えますか? ちなみにこの劇中でヒロインは「希望」と答えていました。その答え方が、作品全般に貫かれていて、クライマックスでのヒロインの行動に私は感銘を受けずにはいられなくて、観終わった後この作品がとても好きになりました。そしてその後すぐに、DVDまで買ってしまいました。

私は映画を観ながら、その「三つのうちで一番大切なもの」という質問のことを、ずっと自分に照らし合わせて考えていました。そして考え至るのは、私にとってのその答えは「信頼」なんだと思うのです。自分が人生に求めるもの、生涯の仕事に求めるもの、愛する人に求めるものは、そういうものに集約される気がします。どの選択が良いとか悪いとか、そういう話ではなくって、たぶん自分はそういう傾向なのでしょう。そう考えると、自分のことがとてもわかりやすい。人が自分の人生に求めるものについて、シンプルな設問の立て方として、「信頼、希望、愛情」という分類は面白いなぁ、と思うのですが。皆さんはどう思いますか?

http://www.uipjapan.com/charlotte/

ジム・ヘンソンの伝説

 

STUDIO VOICEの10月号に「ジム・ヘンソンの伝説」という特集記事が掲載されました。最近はその名前をあげても、あまり反応がないのが残念ですが、ジム・ヘンソンは70〜80年代に活躍した偉大なマペット・クリエイター&映像作家です。私の最も敬愛する作家の一人。80年代に大きな潮流をつくった「SF&ファンタジー」系の映像作品に愛着を持った人なら、ジム・ヘンソンの名前を知らない人はいないでしょう。そのくらいに偉大な、影響力のあるクリエイターでした。単に「偉大な」というのではなくって、彼がつくるファンタジックな映像世界、ユニークなマペットたちは、とにかく魅力に溢れていて、愛さずにはいられない存在だったのです。

ジム・ヘンソンの仕事として、もっとも有名な、誰もが知ってるキャラクターは、「セサミストリート」の愛くるしいマペットたち。そして「スターウォーズ」のヨーダにリアルな動きと特殊撮影の効果を与えたのもジム・ヘンソンの功績。その後も「ダーククリスタル」や「ラビリンス」等の本格的なファンタジー映画、残酷で不可思議なお伽噺を題材にした「ストーリーテラー」など、良質なオリジナル作品を数多く生み出しました。ジム・ヘンソンの作品はたくさんの人を魅了し、愛され、評価を高め、皆が注目し大きな期待を集めていたその矢先・・・彼は突然この世を去ってしまったのでした・・・・。その時の悲しさは、ちょっと言葉になりません。今思い出しても、胸が痛むのです。

ジム・ヘンソンが亡くなって、今年で15年。その後しばらく彼の名前を聞く機会は少なかったのですが、最近にわかにジム・ヘンソンの評価が高まってきたようです。「ダーククリスタル」「ラビリンス」のDVDが再発されたり、雑誌で特集記事が組まれたり。近頃のファンタジーブームが契機となって、ジム・ヘンソンの存在がクローズ・アップされ、彼が遺したダーク・ファンタジーの世界が時代を先駆けた優れた作品であったと評価されるのは、ファンとしてとてもうれしいことです。やっと時代が追いついたのかなぁ、とか思ったり。

今私の中でも、ジム・ヘンソン熱が急上昇中。夜な夜な彼の映像を観て楽しんでます。特殊効果に限って言えば、確かに今の時代から見ると拙い印象は拭えないのだけど、その拙さがまた映像に独自の魅力を添えているようにも感じるのです。CGではとうてい及ばない、手作りのあたたかさと、職人的なこだわりと創意工夫が結実した表現の力強さが、彼の映像からはひしひしと伝わってくるのです。少し思い入れが過ぎるのかもしれませんが。

※「ダーククリスタル」「ストーリーテラー Vol.1&2」は廉価版のDVDが出ています。
※ジム・ヘンソン・カンパニーの手で、現在「ダーククリスタル2」の制作が進行してるそうです。楽しみですね!

セルゲイ・ボドロフ監督「コーカサスの虜」を鑑賞

先日の日曜、渋谷に出たついで、特に目的もなかったのだけど、HMVのDVDのコーナーに立ち寄った。今日は絶対買わないと思って心に決めてお店に行ったのだけど、やっぱりダメですね。物欲を抑えきれず、映画のDVDを3本買ってしまいました。

この日買ったのは、セルゲイ・ボドロフ監督の「コーカサスの虜」、サリー・ポッター監督「耳に残るは君の歌声」、私の大好きなニキータ・ミハルコフ監督の「光と影のバラード」(デジタル・リマスター版)。後の2本はもう何度も観てる作品なのだけど、「コーカサスの虜」はタイトルを知ってただけで未見の作品でした。以前「ベアーズ・キス」という映画をwowowでたまたま観てとても印象に残って、それと同じ監督と知って、ただ勢いで買ってしまいました。
で、昨日疲れて家に帰ったはずが、朝の4時に目が覚めてしまい眠れなくなったので、この作品を観てみることにしました。ロシアとチェチェンの間の紛争を題材にした重いテーマを扱っているということだったので、疲れてる時にそういうものを観るのはどうかと思ったのだけど、まぁ、途中で寝てしまったらそれはそれでいいかなって思って。でも良い意味でその予想は見事に覆されました。とにかく素晴らしい映画! 最後まで夢中で観てしまいました。ラストの悲しい結末には思わず胸が苦しくなってしまうのですが、何とも言えない余韻がずっと後まで残ります。そして、いろんなことを考えさせられる作品でもありました。

毎日TVでは、様々な地域での戦争、紛争、報復行為、殺戮の映像が繰り返し映し出されます。でもそういう映像を見ていても何故かリアルなものとは感じられず、戦争について、人と人との争いについて深く考える契機を持ち得ません。それは自分自身の意識の持ち方の問題でもあるのですが、メディアの報道のあり方の問題でもあり、なかなか自力では乗り越えていけない難しい問題が横たわっているのだと思います。ふとすると、考えること自体あきらめてしまいそうになります。けれどもこういう優れた作品に触れたとき、物事の奥底にある大事な問題の本質を、やっと少しだけ垣間みることができる気がします。

「どうしたら戦争をやめられるのか、私たちにはわからない。戦争を始めることは簡単だが、終わらせることは難しい。人を愛することより、殺すことの方が簡単なのだ。でも、私たちは努力すべきだ」——これはDVDのパッケージに綴られていた監督の言葉。最初見た時は気にかかる言葉ではなかったのだけど、映画を観終わった後、あらためてこの言葉を読み直してみると、「でも、私たちは努力すべきだ」の言葉に、特別な想いが込み上げてくる。確かなものは何もないのですが、この映画の感動の余韻の中で、私はそんなことをぼんやり感じました。
http://www.showtime.jp/info/cinema/00012/

ところでこの映画、映像の雰囲気・質感が独特で、私は観始めてすぐに「あぁ、すごく親しい感じがする」という気分で、とてもうれしくなってしまいました。古き良きソビエト映画の雰囲気を引き継いでいる作品であることはよくわかったのですが、それにしてもこの感覚はなんだろう? すごく自分好みな映画の肌触り・・・と思いながら映画を観ていたのです。で、DVD特典のスタッフキャストを見てびっくり。撮影監督がなんと、パーヴェル・レベシェフ。ミハルコフ監督の常連のスタッフでした。「あぁ、だからなんだ〜」と一人で合点してしまいました。そういえば主演の一人は「太陽に灼かれて」のオレグ・メンシコフだし、村の可愛らしい女の子はエレーナ・ソロヴェイとなんとなく面影が似てる気がするし。なんだか作品そのものがミハルコフ作品(「黒い瞳」以前のもの)へのオマージュのようにも思えてきます。ちょっと偏った見方かもしれませんが。

この日買ったDVDはなぜかみんなロシアにつながりのものでした。自分ではそういう意識はまったくなかったのですが。たまたま気分がロシアに向いてたのかもしれませんね。

オネーギンの恋文

onegin.jpg深夜のNHK-BSで「オネーギンの恋文」というイギリス映画をやっていた。まったく前知識なしに、途中からぼんやり見ていたのだけど、じわりと心に響いてくる、なかなかいい映画でした。主演はレイフ・ファインズ、リヴ・タイラー。監督はレイフ・ファインズの妹、マーサ・ファインズ。ロシアの文豪プーシキンの原作を映画化したもの。
作品の中で印象的だったのが、主人公=高慢で身勝手な貴族の男が、ヒロイン=田舎育ちではあるが才女で情熱的な女に、本を貸すシーン。ヒロインが「何か本を貸してくださらない?」と男に頼むと、「そうだ、いい本がある。新しく入ったばかりの本だ」といって差し出すのが、ルソーの「新エロイーズ」だったのだ。「新エロイーズ」はルソーの著作の中でもかなり異色な作品。貴族令嬢の娘と、家庭教師との間で交わされる書簡(=恋文)の形式で綴られた恋愛小説。そしてかなり風変わりではあるけれど、ルソーの思想の要が実はそこにあるのではないか、と評されていたりもする。ルソーという人は本当に面白い人で、言ってることがいつもバラバラでとりとめがなく、矛盾だらけ。でもバラバラのような論説が全体としてはなんとなくつながっていて、ちゃんと筋道が通っている・・・という不思議な思想家。だからこそ魅力があって、多くの人を魅了する。私も一番好きな思想家。たくさんの影響を受けた。
昨日友人と飲みながら話をしてるうちに、ひさしぶりにふと、ルソーの名前が出たりした。その後家に帰ってテレビをつけたら、またルソーの名前と出会ったので、なんだかとても不思議な気分。またルソーの本を読み返してみたくなった。途中で挫折してしまった「新エロイーズ」。もう一度チャレンジしてみようかな。

どうでもいいけど、リブ・タイラーって、やっぱりきれいですね。特別好きな顔立ちの女優さんではないのだけど、映画の中ではひときわ美しく輝いて見えます。独特な雰囲気、魅力を持った女優さんだと思います。

ピーター・ウィアーDVD BOX

中野ブロードウェイの小さなDVD屋さんに立ち寄ったら、『ピーター・ウィアー DVD BOX 1』なるものを発見して大興奮。オーストラリア時代に撮った貴重な4作品が収録。何と言っても、私の一番好きな映画の一つ「ピクニック at ハンギング・ロック」(永く廃盤になっていた)が収録されたことに感激!!!! もう舞い上がってしまって、衝動買いしてしまった。定価15,750円はかなり痛かったけれど・・・。

ピーター・ウィアーは私のもっとも好きな監督の一人・・・でした。過去形になってしまうのは、近年の作品がどれもちっとも面白くないから。そもそもハリウッドに入ってからの作品はどれもぱっとしない。「刑事ジョン・ブック 目撃者」だけは別格で、素晴らしい作品だった。「グリーン・カード」も、とても後味のいい作品。でも、もっともっといい映画が撮れる監督だと、私はまだ信じてるのだけど。

このBOXは、あえてオーストラリア時代の作品に限定したところがすばらしいと思う。オーストラリア時代のピーター・ウィアーの作風は、非常に難解でストーリー展開に起伏もないから、正直とても取っ付きにくい。でも独自な映像センスが際立っていて、作者が何を言いたいのかわからないまでも、とにかく印象に深く残るものだった。

私は映画を評価する上で大事なのは、その映画を「理解」できるかどうかではなく、その映画を観ることが自分の内でひとつの「体験」になり得るかどうか、にかかっていると思う。そういう意味で、ピーター・ウィアーの作品の出会いは私にとって、とても大きな出来事だった。もう15年くらい前のことだけど。今でもその時の印象を思い出すと身体がゾクゾクするようだ。劇場ではなくDVDで、それが再現できるかわからないのだけど・・・でもこのBOXは私にとって、間違いなく、宝物のひとつになるでしょう。

愛と祈り

先日友人と飲みながら話をしていた時に、ふと『TV版・大草原の小さな家』の話題が出て、ひさしぶりに見返したい気持ちになった。夜中に部屋の奥の収納をかき回して、高校生の頃にビデオで録画してたテープをひっぱり出してみた。かれこれ二十年くらい前のものなので、テープの状態がかなり悪くなっていたけれど、かろうじてまだ再生することができた。今も大事に、私の手許に残っていた数遍のエピソードのひとつが「愛と祈り」だった。

さっそくテープを回してみると、その冒頭のオープニングを見ただけで、急に胸が熱くなってしまった。私はリアルタイムで番組を見ていたわけではなく、見始めた時はもう何度目かの再放送だったと思う。最初は何の思い入れもなくて、あぁ、今週もやっているなぁという程度に、なんとなく見ていたのだけれど、途中から夢中になって毎週欠かさず見るようになった。なにしろ10年以上にわたって続いた長寿番組なので、ストーリーが面白い時期、面白くない時期いろいろあったのだけど、第3〜4シーズンのエピソードが私のお気に入りだ。この頃のエピソードは、心があたたかくなる楽しい話と、ちょっと切なくなる悲しい話と、そのバランスがうまく保たれていたように思う。

「愛と祈り」は第3シーズンに放映された「前編/後編」にわたる長編で、とても見ごたえがあり、『大草原の小さな家』のもっとも評判の高いエピソードの一つだ(…と思う)。長女のメアリーが重い病気で入院し、お父さんはその高い入院費を払うために単身で遠い土地へ赴き、危険な鉄道工事の仕事に就くが---という話。お父さんがトンネル工事の事故で生き埋めになって、そんな状況の中でも娘のことを想って、愛と祈りの言葉をつぶやくシーンは、もう、何度見ても泣けてしまう。ひさしぶりに見返しても、その感動はまったく色褪せない。本当にすごいドラマだったと、あらためて気づかされる。

アメリカの古き良き時代の家族愛を描いたTVドラマ・・・そう言ってしまえば、ありふれたテーマとストーリーなのかもしれない。でもそんな風に割り切って言葉にはできない、何かが、あの作品にはあったように思う。制作者も出演者もみんながあの作品を愛し、良いものをつくりたい、という想いに満ち満ちていたように感じる。それがあの作品の「いのち」のようなものなのかもしれない。だからこそ多くの人に支持され、今もたくさんの人に愛され続けているのだと思う。

魔法遣いに大切なこと

『魔法遣いに大切なこと』という、TVシリーズのアニメーション作品がある。ふとした機会にこの作品に出会って、それからこの作品のことがとても気にかかるようになった。TVでアニメーションの番組をちゃんと続けて見たのなんて、近頃ほとんどなかったことだけど。

ストーリーは、近い将来‥‥というか、現代の日本。東京の下北沢周辺が舞台。「魔法遣い」というものが架空のものではなく、ひとつの技能として社会的に、法的に位置付けられている社会(その点以外は、私たちの社会とほとんど変わらない)という設定。魔法使いの研修を受けるために、岩手県の遠野から上京してきた女の子のお話。ストーリーや設定は、特別に目新しいものではないのだけど、その描き方や視点の置き方が、かなりクールで現実味があって、また、「魔法」というものの表現の仕方にも独特な解釈が伺えて、とても良くできた作品に仕上がってると思う。

そのシリーズの第1話。主人公のユメという女の子が、上京してきた最初の日、下宿先で宅配ピザを食べながら泣きそうになるシーンがある。そのシーンを見ながら、自分が東京にはじめて出てきた頃のことを思い出して、ぐっと心に込み上げるものがあった。思うに、田舎から東京に出てきた人たちは、皆「魔法遣いの研修生」みたいなものかもしれない。‥‥なんて言い方をすると、東京育ちの方達に不公平か。言い方を代えれば、夢を形にしていく技術を身につけるために、それまで自分が慣れ親しんできた社会とは違う世界へ、あえて飛び込んで行こうとする人たちは、皆「魔法遣い」の予備生のようなものなんじゃないだろうか。それぞれ自分にある可能性を信じて、新しい世界へと踏み出して行くのだ。皆同じせつなさ、もどかしさを抱えながら。
そしてその「もどかしさ」の感触こそが、一人の良き「魔法遣い」となるための、ひとつの条件、欠かせない通過点となるのだと、物語の中で語っていたように思う。「魔法遣い」には程遠い自分だけれど、「魔法遣い」を目指して東京に出てきた頃の気持ちを、忘れないでいたい。

ハンガリー映画『ハックル』

赤坂の国際交流基金フォーラムで、昨日から「ハンガリー映画祭」が始まった。映画祭といってもたった5日間の上映期間。仕事は立て込んでいるのだけど、私はどうしても行きたくって、昨日なんとか時間を作って観に行ってきた。

昨日観たのは、ハンガリーの新人監督、パールフィ・ジョルジの『ハックル』という作品。舞台はハンガリーのどこかの片田舎。村の人たちの日常生活や、のどかな自然の風景を切り取った映像が、非常に個性的なカメラワークで延々と続いていく。これはドキュメンタリー? と思いきや、不可解な連続殺人事件が静かに進行していく。台詞はほとんどなくて、いっさいの説明もなく、のどかな田園風景の映像の背景で、謎のストーリーが展開していくのだ。まるで隠し絵のような手法だ。とても変わった映画。でも、とてもいい作品だった。

あぁ、それにしてもハンガリーの風景、人、音楽、それらすべてが、なんて素敵なんだろう。何の理由も根拠もないけど、ずっと前からハンガリーという国への憧れを抱いている。その気持ちは何年経っても薄れることなく、私の中でその想いがますます募っていくようだ。何が私をこんなにも魅了するのか? やっぱり一度は行って確かめてみたい。仕事がんばって、お金ためて、必ず行こう。新しい目標ができた。

ネズの木

友人からプロジェクターを譲ってもらった。かなり旧式のものなので機体が大きくて重量もあるので、昨日わざわざレンタカーを借りて引き取りに行ってきた。さっそくスクリーンを設置して音源をアンプとスピーカーに繋いでみたら、ちょっとしたホームシアターに早変わり! なんだかとてもわくわくして、すぐに上映会をやってみたくなった(といっても一人でなんだけど)。

まず何を観ようかさんざん悩んだ末、DVDを買ったまままだ観ていなかった、『ネズの木』という映画を選んだ。1986年、アイスランドの映画。監督はニーツチェカ・キーン。二十歳の時のビョークが出ている幻の作品として、2年前にロードショー公開されて話題になった。
私としてはビョークが主演しているということより、「〈グリム童話〉本来の形---残酷性、エロティシズム、理不尽な悲劇、といった要素を忠実に再現した作品」として評価を受けていたことに関心があった。観よう観ようと思いながら、忘れてしまっていたこの映画。期待外れにならないか心配だったのだけど、びっくりするくらい素晴らしい作品だった。背筋がゾッとするような残酷なモチーフを散りばめたストーリー、全編モノクロームの美しい映像、そして何より音楽が素晴らしかった。何とも形容しがたいビョークの特殊な存在感も際立っていた。

私の大好きな映画の一つ、メレディス・モンクの『Book of Days』の世界観にちょっと重なるものがあった。西欧中世の村をイメージした殺伐とした風景が、何故かしら、いつも私の心をゆさぶる。こういう映画をずっと観たいと思っていた。大満足。

アメリ

銀座に出かけた折、レイトショーで『アメリ』がやっていたので、ちょうどいい機会と思って観て来た。この映画を私は公開前からずっと楽しみにしていたのだけど、あまりにもたくさん人が入るものだから、なんだか足が遠のいてしまっていた。根がひねくれているものだから、たくさんの人が同じ方向を向くようになると、もうそこには関心がなくなってしまう。でもこの作品の監督は、ジャン=ピエール・ジュネ。私のとても好きな監督のひとり。観る前から、私の期待は相当なものだったのだけど、実際に作品を観てそれ以上に感激してしまった。とても素敵な映画。

ひどく内気な女の子が、ある時あるきっかけから、他人の人生をほんのちょっと幸せにしようと意を決することから、この物語が始まる。彼女がちいさな作戦を思いつき、それを実行した時、その周りの世界がポツッ、ポツッと明るくなる。その光はとてもちいさくてはかないものだけれど、私たちの世界にかけがえもなく大事なものだと気づかされる…。
「観た人が幸せな気分になるような映画を作りたかった」と、監督本人がコメントしている通り、この映画を観終るとなんだかとてもあたたかい気持ちが胸の奥に込み上げてくる。人生に必要なのは、品のない笑いやしみったれた慰みものや、お手軽な「癒し」なんかじゃない。ほんの一瞬、世界が輝く場面に立ち合うことができたなら、その記憶を心にとどめていられたなら、人はたいていの苦しい場面も我慢して生きていけるのだと思う。

自分の周りの世界をほんのちょっと明るくするために、私たち一人一人が自らの小さな灯を掲げれば……その時、世界はどんなに美しく輝くことだろう…。

フォレスト・ガンプ

テレビをつけたら『フォレスト・ガンプ』がやっていた。散らかった部屋を片しながら、どうでもいい気分で観ていたら、思いがけず面白くて見入ってしまった。この映画の公開当時、世間でやたら騒がれていたけれど、私はとても観る気になれなかった。全く関心がなかったので内容も知らなかった。卓球に汗を流す青春映画かと思っていたらまったく違っていて、きちんとしたテーマ性のある作品だった。とてもよくできた映画。私はよく知らないのだけれど、この映画の公開当時、この作品本来の意図について、ちゃんとした紹介のされ方をしてただろうか。だいたい「一期一会」なんていう余計な副題をつけるからうさん臭く感じてしまうのだ。「一期一会」という言葉とこの作品との関わりが、私は今にいたってもまったく理解できない。

この映画のことをもう少し知っておきたいと思って、ネットで検索をかけたら、その原作についての文章をつづっている人がいた。その人はこの作品を、「ほらふき男爵の冒険」の現代版---と解釈していて、その言及は私も的を得てると思った。
この作品の主人公がアメリカンドリームを実現していくストーリーは、映画の中でも主人公が語る「ほら話」として扱われている。映画という虚構の世界の中に、また虚構の世界が内包される。その仕組みに気がついてはじめて、この作品本来のテーマが見えてくる。あのとてつもない「ほら話」を紡ぎ出す能力によって、主人公は最愛の人と再会する運命を引き寄せる。私たちの日常的な価値観や常識の世界から、ついに抜け出してしまうのだ。何よりそのことに感動させられる。

「ほら話」を紡ぐ能力とは、「夢」を見続ける力なのだと私は思う。「現実」という名の鋳型に「夢」を押し込んでしまうしまうのではなく、私たちが頑固に「夢」を見続けることによって、「現実」の世界を編み変えていく。そのような壮大な試みだと思う。
この映画の原作を読んでみたいと思った。

映画『ボンベイ』

1995年のインド映画『ポンベイ』を観た。ヒンドゥー教徒の主人公とイスラム教徒のヒロインが、周囲の反対を押し切って結婚する。自立して幸せな家庭を築くが、1992〜3年のヒンドゥーとムスリムとの武力衝突に家族が巻き込まれる悲劇を描いた作品。
映画としても洗練されていて、そのドラマティックな展開にとても胸を打たれる。うっとりするほど美しいシーンがたくさんあるのだけれど、もう一方で描かれる暴徒の凄まじさに、だんだん心寒い気持ちにもなってきた。単にスクリーンの中での出来事して楽しんでいられなくなった。この余りに悲惨な歴史上の事件に、「どうして?」と思わずにいられない。

この事件の史実について、私はほとんどその知識がない。正直な話、アジア諸国の社会情勢に疎いし、それぞれの歴史や文化のことを、さほど深く知ろうともせず今まで過ごしてきた。「宗教対立」という言葉を聞くとすぐに、「ああ、また始まった。なんて厄介な問題」と思ってしまう。私だけでなくたいていの日本人がそうなんだろう。でも実際に起きている「対立」の中身やその社会的な背景をきちんと見ていくと、きっと違う局面が見えてくるに違いない。最近そのことを反省していて、「中東」と呼ばれてしまう国々のことも、イスラムのことなども、もう少しちゃんと知っておきたい思うようになった。同じアジアの住人として、風土や歴史、習慣や宗教が違っても、もっと深いところで理解し合えることがたくさんあるはずなんだから。

先週日曜日も『いまイスラム社会の映画から見えてくるもの』という講演を聞きに行った。その時の講師ナギザデ・モハマッド氏が、熱のこもった声でこんなことを語っていた---
「皆さんはすぐにイスラム世界ってひとまとめに言うけれど、たとえば西洋人が日本人のことを知ろうと思って仏教を勉強したって、日本人を理解したってことにはならないでしょう。イスラムを信仰してる人達も、みんなそれぞれいろんな価値観があって、いろんな生き方をしてるんです」
「大国が唱える”グローバリズム”という一元的なシステムではなく、多様な価値を認め合える多元的な世界を構築しないといけない。それが私たちにとっての幸せな世界を築くための第一歩です」

アラビア語の「イスラム」という言葉は「平和」を意味する「サラーム」という言葉から派生しているのだそうだ。しかし多くの日本人がイスラムの世界に対して抱くイメージは、「物騒な宗教」「怖い宗教」というものでしかない。わたしたちは彼らのことを、実際何も知らずにいたんだと思う。このような知識の欠如、無関心、配慮のなさが、すべての諍いの根幹にあるんだと思う。
「イスラム」とか「中東」といった、大雑把な概念を物差にするのではなく、その国のこと、その土地のこと、そこに住む人々のこと、その一つ一つにまなざしを寄せることが大事なんだろう。あらためてそんなことを、思い直したりした。

(2002/3)

深紅の愛

メキシコ映画『深紅の愛 DEEP CRIMSON』の公開が始まった。リプシュテイン監督の舞台挨拶があるからということなので、今日は劇場に足を運んできた。リプシュテインは、日本でその名はあまり知られていないが、ラテンの巨匠と称されるメキシコの偉大な映画監督。実は私もよく知らなかったのだけど、昨年『大佐に手紙は来ない』という作品を観る機会があった。きめが細かく情感のこもったカメラワークがとても印象的で、人物表現やストーリーも素晴らしい内容だった。
今回の『DEEP CRIMSON』がそのリプシュテイン監督の作品と知らされ、必ず観ておこうと思った。ただ、今回の作品のストーリーが、醜悪な中年男女のディープでヘビイなメロドラマと聞いてもいたので、正直あまり気乗りがしなかった。ところが映画の上映が始まってすぐに、私の先入観は変わってしまった。その流麗で豊かな映像表現はこの作品においても際立っていて、まったくの狂気の物語をひとつの愛の物語として見事に描ききっていた。

この作品は1940年代に実在し、「ロンリー・ハーツ・キラー」として全米を騒がせた男女二人組の殺人犯の物語を題材にしている。舞台は1949年のメキシコ。太った子持ちの看護婦コラルは、雑誌の「交際希望欄」を通じてニコラスという男性と出会う。コラルはすぐにニコラスに愛を求めるが、その夜のうちに金を盗まれて逃げられてしまう。ニコラスは追いかけてくるコラルを毛嫌いするが、カツラをかぶった結婚詐欺師だという事実を知った後も、なお自分を愛してくれるコラルのことが、かけがえのない存在なのだと気づく。やがて互いを深く愛しあうようになる二人は、狂気の殺人を繰り返しながら悪夢のような旅を続くて行くのである……。

愛する対象をずっと求め続けてきた女と、誰からも愛されたことのなかった男が出会った時の、痛々しいほど激しい純愛の物語。監督のリプシュテインが舞台挨拶のなかで語っていた。「どうか皆さん、この映画をご覧になって、この二人の共犯者になってください」と。
あんなにも深くて激しい愛の形、その「共犯者」になれるだけの情熱が、私の内にもあればいいのだけれど…。

ニキータ・ミハルコフの『絆』

ニキータ・ミハルコフ監督作品を特集したオールナイト上映が、テアトル池袋で企画されていたので観に行ってきた。上映作品は、5年ぶりの新作『シベリアの理髪師』『絆(1981年)』『太陽に灼かれて(1995年)』の3本。夜の10時20分に開映で、終わったのは朝の5時半過ぎだった。

ニキータ・ミハルコフは私の一番好きなロシアの映画監督。学生の頃に三鷹にあった名画座で、『機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲(1977年)』という素晴らしい映画に出会って以来、私にとってこの監督の存在が特別なものになってしまった。とにかくその映像が繊細で美しく、ロマンティシズムに溢れた作品だった。最近は作風が少し大味になってきて、詩情が希薄になってしまったが、それでも古き良きソビエト映画の感触を今に伝えてくれる、貴重な映画監督の一人であることに間違いないだろう。

今回、長編作品としては私が唯一観ていなかった『絆』という作品が上映されたのでとても楽しみに観に行った。ミハルコフは19世紀末〜今世紀初頭のロシアに時代設定を置いたものが多いのだが、この作品は初めて彼の同時代を扱った作品だった。
映画の冒頭シーンに、いきなりけたたましく騒ぎ立てるオバサンが出てくる。自分だけ切符が買えないのは不公平だと駅員に文句を言っているのだ。いつものデリケートで優雅な作風とあまりに違う感触に、正直かなり戸惑った。そのオバサン(田舎暮しのマリアという中年女性)が、都会の街に住む娘一家を訪ねていく。その列車の車中、これまた下品で不愉快際まりないオジサンが登場するのだが、その中年男性(リャーピン)とマリアは次第に親しくなる。

やっとの思いで再開したマリアの娘は、けばけばしい化粧をし、派手な服を身につけ、おまけに亭主とはすでに別居状態だった。亭主は見るからに情けない男で若い愛人もいる。孫娘はいつもヘッドホンをつけて耳障りな音楽をガンガン鳴らしまくっている。皆がいつも苛立っていて、なじり合い、奇声を上げ、部屋の内外から騒がしい音が始終鳴り響く。都会の喧噪と空虚な人間関係にすっかり嫌気がさしてしまい、田舎に帰ろうとするマリア。そんな折、車中で知り合ったリャーピンと再会する。
映画は後半になって、その登場人物一人一人がそれぞれ悩みを抱え、傷つき、苦しみながらも、精一杯生きている姿を浮かび上がらせてくれる。とても感情移入できるはずのなかったマリアやリャーピンが、とても実直で美しく、魅力的な人物に感じられてくる。マリアが娘達のためにやろうとしたことが、ますます事態を紛糾させてしまうのだが、それでもバラバラだった人間達が少しづつつながっていくことになる。その展開はとてもドラマチックで感動せずいられないのだが、映像はあくまで淡々としていて過剰な演出もなく、それぞれの個人の素顔を淡々と写し出すだけなのである。

ラストシーンにもハリウッド的なハッピーエンドは用意されていない。いつも傷つきやすくて結び直すのが難しい現代の人間関係を、飾らずに実直に描いていく。それでもミハルコフの視線はあくまでやさしく、愛情に溢れていて、人間の可能性を示している。

……なんて豊かな映画なんだろう。私の大好きなミハルコフ。

赤い小人

両国のシアターχで、『リュシアン 赤い小人』という映画の先行レイトショーを観てきた。ずっと気になっていた映画であったが、期待以上に素晴らしい内容だった。

主人公は、法律事務所で勤勉に働く「小人」のリュシアン。臆病で几帳面な性格ではあるが、繊細で想像力豊かな人物として描かれている。ある日リュシアンは、ふとしたことで知り合った年増の伯爵夫人に、その文筆の才能を賞賛される。はじめて自分を認めてくれる人に出会えたことで、彼は有頂天になる。自分とはまったく懸け離れた彼女の存在が、リュシアンの目にはこの上なく魅力的に映ったのだろう。その妖艶で巨漢の風貌と豪奢な生活習慣にも魅了され、リュシアンは伯爵夫人との情事に没頭するようになる。リュシアンは伯爵夫人を深く愛するが、やがてその生活は破たんする。伯爵夫人はリュシアンを遊び相手としか思っていなかったのだ。深く傷ついたリュシアンは、生活の気力をまったく失ってしまい、退廃的で荒んだ生活に落ち込んでいく……。
そんな時彼を救ってくれたのが、以前サーカスで知り合ったブランコ乗りの少女、イジスだった。同じ背、同じ目の高さのイジスを、リュシアンはこの世界の唯一の理解者としてかけがえなく思い、イジスはリュシアンの心の奥底にある優しさを感じ取り、心から愛するようになる。そして二人は同じ目線の大勢の子供達と共に、王様の行進のような威厳と喝采の中で、光に満ちた世界へと踏み出すのである…。

監督はベルギーの新人で、初長編作ということであるが、映像に力があり、不思議な余韻がしばらく後をひいた。途中の奇妙なストーリー展開と、毒々しいユーモアにも圧倒されるものがあった。「小人」という過酷な運命がこの物語の題材になっているが、一個の人間が自分本来の視点を取り戻していく過程がドラマチックに描かれている。自分が周りの人達とどこかしら違う存在に思え、所在のない存在感を抱き、劣等感に苛まれ、卑屈な意識の芽生えてしまった人であるなら、この物語は切実な共感をもって受け入れられるに違いない。

無理に背伸びすることなく、高見から見下すこともなく、大切に想う誰かと同じまなざしで世界を見渡すことができたなら、その時世界はどんなに輝いて見えることだろう…。

海岸の砂浜で逆立ちしたリュシアンと、うつ伏すイジスが見つめ合うシーンは、切ないほどに美しかった。

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