Top Design Illustration Writings Blog Links Profile Contact

All Pages |  1  |  2  |  3  |   [Back] [Next]

文楽を観てきました!

「文楽」を鑑賞してきました。私にとっては、はじめての体験でしたし、文楽についての見識は何も持っていないのですが・・・とにかく面白かったです!

今回私が観たのは「天網島時雨炬燵」という演目。愛し合う男女が様々な世事上や人間関係に翻弄されながら、義理を立て、道理を通そうとするうちに、結局は心中へ至ってしまう悲劇の物語です。観始めのうちはどうも調子がつかめず、義太夫節の台詞も聞き取りにくくて、舞台の袖に表示される字幕(?)についつい目が行ってしまって、作品世界になかなか入っていけませんでした。でもしばらく観てるうちに独特な語りの調子も耳に馴染んで来て、繊細で優雅な人形の動きにすっかり見入ってしまうのでした。ストーリーの細かいところとかはわからないままのところも多かったですが、そんなことは文楽の世界を鑑賞するのにさほど大事なことではないようです。ニ転三転していくストーリー展開の面白さ、激しい情念のこもった言葉の力強さに、ただただ魅了され、圧倒されっぱなしでした。

この「天網島時雨の炬燵」は、女同士の「義理」の悲劇を描いた作品ということで、人形の操り方に派手な動きは少なくて、それよりも何気ない身のこなしや、感情の機微を巧みに表現した細やかな演技に見所がある印象でした。登場人物達の台詞の掛け合いが、三味線の音色・リズムと一体となって、次第にドラマとしての高まりを見せていく演出も見事でした。観終わってしばらく経った今も、台詞の心地よい感触が頭を離れません。「あんた、そりゃあんまり情ないわいな」「それで道理は立つかいの」ってな感じの、「〜わいな」「〜かいの」という丸みのある言葉の感触が、もうすっかり気に入ってしまいました。あらためて感じた、美しい日本語の世界。そして濃厚な情のこもった世界。こういうものって、忘れちゃいけないですね。

で、実は今回一緒に観に行った友人の一人が、演者に知り合いがいるということで、なんと幕間の時間に楽屋へ遊びに行かせていただいたのです。短い時間でしたが、人形を間近で見せていただいて、舞台裏も覗かせていただいて、もう、大興奮で感激しまくりでした(笑)。興奮し過ぎであまりちゃんと撮れなかったのですが、その時撮影させていただいた写真をいくつかアップしてみます。

 

美しい人形達をこんなに間近で見ることができました。実際に目の前で動かし方を教えていただいたり。貴重なお話をたくさん聞かせていただきました〜。

これは“舞台下駄”。一体の人形に三人の遣い手がつくのですが、手足でそれぞれ違う位置から操作をするために、このような高さを調整する下駄を履くのだそうです。役者さん達一人一人が自分の下駄を持っていて、舞台と役に合わせて選んで履くのだそうです。さすがにすごく使い込んであって、いい味を醸し出してます。これを間近で見れたのも感動ものでした。
文楽、本当に面白かったです。またぜひ観に行きたいです。

 

ノーム・チョムスキー

仕事の用件で渋谷に出たのだけど、お客さんの都合で急にぽっかり空いてしまった。仕方ないので何気なく本屋に寄ってみた。何も買いたいものはなかったのだけど、本への誘惑にどうしても勝てず、またあれこれと予定外な買物をしてしまった。前から気になっていた、チョムスキーの著作を2冊。『ノーム・チョムスキー』と『チョムスキー、世界を語る』。それから池澤夏樹の『イラクの小さな橋を渡って』という本も気になったので買っておいた。
多くの人にとってそうだと思うのだけど、今世界で起きていることがどうしても私にはどうしても理解できない。過去の歴史の中で幾度もその間違いに気づきながら、何故今日にいたっても繰り返し戦争状況をつくり出してしまうのか...。その問いに一番ちゃんとした案内を与えてくれるのが、チョムスキーなんだと思っていた。
家に戻ってすぐにその一冊を読み終えたのだけど、明解な言葉で、辛らつに、私たち自身が参加してきた「テロ行為」について言及されていて、強いショックを受けた。だんだん背筋が寒くなって、泣きたい気分になってくる。何かしら急に世界が変わったわけじゃない。ずっと以前から、こうなるべき方向に向かって皆で突き進んでしまったんだと思う。私たち自身が、皆で知らないふりをして。

本当に美しいもの、大事なものは、私たちのすぐ身近にありながら、たいていの場面で私たちはそこから距離を置いてしまっている。本当に忌むべきもの、危険なものは、私たちとは疎遠であるように感じながら、実はそのまっただ中にいるのだ。せめてそのことをもう少し自覚していたい。


『ノーム・チョムスキー』(発行/リトル・モア)は、1〜2時間もあれば読んでしまえる本です。機会があったらぜひ手に取ってみてください。今日に生きる私たちにとって、最低限知っておかないといけないことが語られている本だと思います。

ドリーミング

最近またケイト.ブッシュのCDを聞き直している。私は彼女の音楽を、BGMとして聞くことができない。軽率な態度で聞くことを許さない程に、彼女の音楽はあまりに深遠で、不可解で、神々しい。
殊に『THE DREAMING』の頃の彼女の音楽は、心の叫びのようなものに満ち満ちていて、胸をえぐられるような気持ちになる。純粋と狂気の入り交じった特異な世界。こんな音楽を創造してしまう才能は、もう二度と現れることはないんじゃないだろうか。本当に特別な人だと思う。

私は20代の半ばくらいの頃に、ケイト・ブッシュの音楽を毎日のように聞いて過ごした。あの当時、私はすっかり目標を失っていて、絵を描く意欲もなくしていた。今思い起こすと、心のバランスを少し崩していていたようにも思う。私は誰かに寄り掛かったりするのが嫌いだったから、誰の助けも求めずに一人でもがいていた。そんな時、ケイト・ブッシュの音楽を聞くと、心のずっと奥深いところに、かすかな明かりが灯る思いがしたものだった。以来私にとってケイト・ブッシュの音楽は、欠くことのできない大事なものの一つになっている。

さてそのケイト・ブッシュだが、前作『レッド・シューズ』を出して以降、表舞台からまったく姿を消してしまった。もうかれこれ十年くらい新作を発表していない。私はその後の事情をまったく知らなかったのだけど、どうやら子供を生んでお母さんになって、しばらく音楽活動から遠ざかっていたらしい。ところがネットで探った情報によると、現在(昨年から?)ニューアルバムを制作中らしい! 長い空白の後に、彼女がどんな音楽を聞かせてくれるのか、今から待ち遠しくてならない。

» »【続きを読む 「ドリーミング」】

ハインリッヒ・フォーゲラー展

001.jpg『ハインリッヒ・フォーゲラー展』を観に行ってきた。開催前からずっと楽しみにしていたのに、結局観に行ったのは終了ギリギリになってしまった。

私はフォーゲラーのことを竹久夢二を通じて知った。夢二についての卒業論文を書いたことがあって、そのための資料文献の中で、フォーゲラーという画家の名前と作品を知った。そしてある時期にフォーゲラーの絵に夢中になっていたことがあった。幻想的で物語性を感じさせる作風は非常に高い次元に昇華されていて、その豊かなイマジネーションと卓越した表現力において、同様の作品を描く画家達の中でも抜きん出た存在だった。しかし画集等をいくら探しても見つけることができず、とても悔しい思いをした思い出がある。少ない文献を手に入れるために、研究機関に手紙を書いて資料を送ってもらったこともあった。

そんなことを思い出しながらの今回の展覧会。会場につく前にこそ胸が高まっていたが、いざ作品を目の当たりにすると、案外冷静に作品と向き合う自分がいた。強く衝撃を受ける程の作品は意外に少なかった。油彩画より、やはり初期の版画や装丁・挿絵などの作品に優れたものが多かった。ロシアに渡ってからの後期にいたっては、同じ画家の作品とは思えない程、その作品世界の質が変わっていた。
20世紀初頭の激動の時代に、ロマン主義的な芸術運動の実践から次第に社会改革思想へと傾倒していく一人の画家の人生を、ドラマとして捉えれば面白がる人は多いかもしれない。しかし私はそんなことより、崇高なまでに繊細で美しかった作品世界が、次第にただ甘ったるいだけの様式美に陥ってしまう、その変容の仕方に興味がある。はかなさや曖昧さ、中性的なものに美の所在を求め、作品の主題として描いた画家達は、みんな同じ経緯をたどる。夢二も同じであった。傑出した作品を描き得るのは若い頃のほんの短い期間で、その後は霊気が去ってしまったかのように別人の絵になってしまうのだ。その理由を私は知りたい。

会場にはフォーゲラーがデザイン・設計したというベンチ椅子が展示されていた。会場の係りの人が「座ってもいいんですよ」と声をかけてくれたので、その椅子に座ってしばらく呆然と時を過ごした。たくさんのフォーゲラーの作品をぼんやり眺めながら、いろいろと考え事をした。もっと早くにこれらの作品に接することができていたら、自分にどれだけ深い影響を与えたことだろう。あまりにも長い間待ちぼうけをくって、恋い焦がれていた想いが少し褪せてしまった気がする。かつての憧れの人は今なお美しく、私の片想いは間違いではなかったと知ることができた。でもちょっとせつない。

ブルガリアン・ヴォイス

ブルガリアン・ヴォイスの来日コンサートに行ってきた。
会場はお台場のLOVE GENERATION。オリジナル・ブルガリアン・ヴォイスのソリストを中心に、男性ソリスト(1名)とガドゥルガ奏者を加えた総勢13名の編成だった。
ブルガリアン・ヴォイスが話題になり、私たちの間でもCDを回しあって聞いたのは、もう十数年前のこと。私が大学2〜3年生の頃だった。ブルガリアン・ヴォイスの登場は、その頃のひとつの事件と言える程、その神秘的な歌声と音楽性は大きなインパクトをもっていた。

今でこそいろんな国の民族音楽が手軽に聞けるようになったけれど、あの当時は世程その方面の知識がない限り良質な音源に接するのは難しい状況だった。東欧の音楽のことなんて、身近で話題にする人もいなかった。せいぜい「エスニックブーム」と呼ばれた軽薄な流行感覚で、アジアやアフリカの陽気なリズムを取り入れた音楽がつかの間人の注目を浴びる程度だった。それがブルガリアン・ヴォイスの登場により、私たちを囲む音楽状況がずいぶん変わったと思う。ワールド・ミュージックという呼称が一般的になり、今ではCDショップに行けばささやかながらもその類いのものを置くコーナーがある。その影響は計り知れない。

そんな当時のことを思い起こしながらの今日のライブ。彼女達の驚異的な歌声の力は健在で、やはり素晴らしいものだった。CDで聞き慣れた曲を、目の前にいる生身の人間が肉声で発している光景に少し戸惑う気さえした。ただ当時のような新鮮な驚きはなく、何というか、心地よいものに触れていられる安心感という印象だった。思い出のある懐かしい土地に帰ってきたような心地だった。

レストラン&ライブステージという会場だったので、とてもくつろいだ気分でライブを楽しめた。過ぎてしまうのがもったいないような夜…。

ルソーのことば

私の枕元にはいつも何冊かの本を置いている。その一冊がルソーの『エミール』中巻。この本には有名な「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が収めれれている。私は何か悩んだりした時も人に相談したりはしない。人に寄り掛かったりするのが嫌いだし、できるだけ自分の頭の中で物事を解決するようにしている。でもそれでも道に迷ったり、わからなくなったりした時、私はいつもルソーの言葉に自分を照らしてみることにしている。ルソーのことばは、攻撃的で激しくて、矛盾に満ちていて、そして美しい…。哲学と言うよりひとつの芸術だと思う。
 
以下、私の好きなルソーの言葉の引用……
 
「私たちは、美しいものへの愛をなくしてしまったら、人生のあらゆる魅力をなくしてしまう。狭い心のなかで、いやしい情念のためにそういう甘美な感情をしめつけられてしまった者、ひたすら自分以外のものには愛を感じなくなってしまう者は、もう感激をおぼえることもなく、凍りついた彼の心は歓びにふるえることもない。快い感動に目をうるませることもない。彼はもう何も楽しむことができない。こういうみじめな人間は、もう何も感じず、生きているとも言えない。彼はもう死んでいるのだ。」
 
「彼らが嘆いている弱さは、自分でつくり出していることを、彼らの最初の堕落は自分の意志から生じていることを、たえず誘惑に負けることを願っているからこそ、やがて心ならずも誘惑に負け、それを抵抗できないものにしていることを、そういうことがどうして彼らにはわからないのだろう。」
 
「私は、人間の自由が自分のしたいことにあるなどとは一度も思ったことがない。それはしたくないことを決してしないことにある。」
 
「未開人はいつも自分自身のなかで生きているのに、社会人はいつも自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きることができない。いわば他人の判断から、自分自身の存在感情を得ているのである。」
 
「おそらくあなたの味方になるものは一人もいまい。しかしあなたは人々の証言を求めなくてもすむようにしてくれる証言を、あなた自身のうちに持つことになる。人々があなたを愛してくれようと憎もうと、あなたの書いたものを読もうと軽蔑しようと、それはどうでもいいことだ。本当のことを言い、良いことをするのだ。人間にとって大切なことは、この地上における自分の義務を果たすことだ。そして人は自分を忘れている時にこそ、自分のために働いているのだ。」

ムジカーシュ

御台場までライブに行ってきた。ハンガリーのトラッド・フォークの代表格である「ムジカーシュ」が来日していて、幸運にもその貴重なステージに立ち会うことができた。なんという幸せ。

ムジカーシュはハンガリーの民族音楽やマジャール人の民謡などを題材に、その卓越した演奏技術で作品に昇華し、世界を舞台に活躍を続けている。以前からCDでその音楽を聞いてはいたのだけれど、ライブの演奏は印象が全く違う程に素晴らしく、体が震えるほど感動した。
演奏の途中、男女一組のダンサーが出演し、ハンガリーの伝統的なダンスを披露してくれた。そのダンスがまた素晴らしく、その女性が来ている民俗衣装も美しく、その女性もまた美しく、途中からずっとうっとりみつめてしまった。ダンスの中で女性がクルクルと何度も回るのだけど、その度にしなやかな生地のスカートが優雅な曲線を描いて宙を舞う。その美しさとといったら、たとえようがない。あんな美しい曲線は、どんな優れた詩人だって言葉にできないだろう。どんなに熟練した画家だって描ききれないだろう。どんな精巧なカメラだって再現できはしない。あの美しさは、あの瞬間にあの場面にこそ存在するものだ。人が回るというシンプルな行為が、あんなにも魅力的なパフォーマンスなのだと今まで気づかなかった。身体が放つ美しさを表現するダンスの魅力を、あらためて感じさせてくれた。

私の内で、ハンガリーという国への憧れが、ますます強くなっていく。

本とコンピュータ・シンポジウム

ブックオンデマンド《リキエスタ》刊行&雑誌『本とコンピュータ』第二期刊行記念のシンポジウム(新宿・紀伊国屋ホール)に参加してきた。会場はほぼ満員で、20代の若い人から年輩の方まで、主に出版・編集の幅広い人たちが大勢集まっていた。プロジェクトとしての<本とコンピュータ>という活動が、広く世間に認知されてきたことを実感した。

今から四年前にこの本が出版された時、実際のところ業界の反応はかなりナイーブなものだった。本を作る現場のあり方に保守的な人達は、「変化」に対してあからさまに拒絶の意志を示していた。出版人自らが「変化」の流れをつくり出そうとする動きを、正直、不愉快に感じていた人達があの頃の出版界では大勢いたことだろう(ある時期、津野海太郎は業界バッシングをくらっていたらしい)。電子メディアやオンライン・パブリシングの可能性を模索することは、出版の未来に自ら首を絞める行為になりかねないと、危惧を抱いていたのだと思う。
しかし状況はあれからずいぶん変わった。電子出版など本とは言えないと、バカにして取り合おうともしなかった人達が、今はその可能性を一生懸命探っている。「インターネットと本は、案外相性がいいものかもしれない」だなんて、今頃になって偉そうに主張する人達もいる。たいていの場合、それは自らの防衛手段であって、積極的に価値を見い出してのことではない。でも、それでも何かやらなければいけないのだと、ようやく腰の重たい連中が動き始めたのは確かだと思う。

第1部は、「編集者、わが電子出版を語る」というテーマで、平凡社・みすず書房・岩波書店・文芸春秋・といった、大御所の出版者の編集者たちがパネラーとして主席。出版の現状と未来について意見を述べあった。それぞれスタンスの違いこそあれ、今起きている変化を「出版史における歴史的転換期」としてとらえようとする点で共通しており、前向きな姿勢を感じた。
第2部は、『本とコンピュータ』第二期の編集スタッフが勢揃いして、出版の現場で今起きていることの具体的な問題点や、将来的な可能性について、それぞれの立場に立った考え方を語ってくれた。歴史的な裏づけのあるメディアの形を尊重する意見や、古い衣や慣習的な足枷を早く外してしまった方がよいとの意見もあり、多様な価値観が絡み合いながら展開する議論に、会場全体がおおいに盛り上がった。「紙の本か、電子の本か?」という二者択一的な論点で批判し合うのではなく、互いがそれぞれの優れた要素を積極的に評価し、発展させる段階に来ているのだと思う。

「しかし実際問題、将来的に電子文化産業において利益回収は可能なのか?」「そもそも知的生産物で利益を得ることが妥当なのか?」という重大な問題提起が出たところで、時間がいっぱいになってしまった。そのような本質的な問題と、現状の課題とを見据えながら、これから本誌の中で考えていきたいといううまとめで幕引きとなった。

私は個人的にとても尊敬している「津野海太郎」さんを、間近に見ることができて、それだけで嬉しかった。刺激的な話をたくさん聞けて、こういう素晴らしい機会に自分も立ち合うことができて、本当に楽しい夜だった。
『本とコンピュータ』第二期の刊行が待ち遠しい。

All Pages |  1  |  2  |  3  |   [Back] [Next]