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『坂口尚 短編集』への想い

私が坂口尚さんの作品に出会ったのは、今から25年くらい前のこと。私は高校生でした。今となっては取るに足らない出来事にひどく心を痛めてしまったり、謂れなき疎外感を抱えてひとりでもがいていた時期でした。
 
そんな頃に一番心の支えとなったのが、坂口尚さんの作品世界でした。たった数冊の単行本をくり返し、くり返し読み直し、どれだけ長い時間を共に過ごしたことでしょう。あの時坂口尚さんの作品に出会っていなかったら、自分はどうなってしまっていたのか...。周りの人達を信じる気持ち、日常の世界を美しいと思う気持ちを教えてくれたのは、私にとっては他ならぬ坂口尚さんだったのです。
 
それからずっと、私にとって一番大きな存在だった坂口尚さん。しかし、1995年12月、突然この世を去ってしまいました・・・。「あっかんべェ一休」という大作を描き終えた直後に、急性心不全で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

その時の悲しさは、とても言葉にできません。心のどこかに大きな穴が開いてしまって、それはもう何によっても埋め合わせることはできないのです。坂口さんのような存在は、どこにもみつけられず、その後はほとんど漫画を読むこともなくなりました。そして消費されるばかりの本が溢れる出版の現況にあっては、坂口さんの既刊本のほとんどが絶版となり、古本屋でしか見つけることができなくなってしまったのでした。


 

sh-tanpen1.jpgところが2000年11月、坂口尚さんの短編をあつめた作品集が、チクマ秀版社という出版社から新刊として刊行されることになったのです。うれしくてうれしくて、待ちに待ったその本を発売日に本屋へ買いに行きました。家に帰るまでこらえきれず本を開いた途端、いろんな想いが込み上げてきて胸がいっぱいになってしまった。思わず涙が溢れてしまいそうで、あわてて閉じてしまったくらいに...。
 
坂口尚は、世界を単純化せずに多様なものを多様なままに映し出し、「虚ろ」「儚さ」といったものに眼差しを寄せる人たちの心情をしなやかな感性で描き切った稀有な作家でした。作品の本質にあるものがそのような「言語化し難いもの」であるが故に、坂口作品の素晴らしさをなかなかうまく伝えられなくてもどかしいのですが・・・。何度読み返してみても、その繊細で豊かな詩情は、色褪せることがありません。どんなに時間がかかっても、然るべき形で再評価される日がきっと来ると思っています。


その『坂口尚短編集』刊行後間もなくして、思いがけない縁あって、『坂口尚未発表作品集』という小冊子の制作に関わらせていただく幸運を得ました。『坂口尚短編集』の1~3巻を全巻購入した読者に購入者特典として提供されたもので、初期の未発表作品を三作品を掲載した他、秘蔵のスケッチやデッサンなどを収録。私は作品のスキャンニング&レタッチ、ネーム入れ、スケッチ作品の選定まで、全体の制作工程を一任させていただきました。もちろん、ご遺族の方と編集者にご相談させていただきながら作業を進め、作者の制作意図をできる限り反映できるよう、当時の自分としては精一杯のことをしたつもりです。今あらためて手に取ると力足らずなところが多々ありますが、私自身にとっては生涯忘れることのできない仕事になりました。実は、私がフリーランスとして仕事を始めた時にたまたま声をかけてもらったのが、この『坂口尚未発表作品集』だったのです。まったく不思議な巡り合わせで、そのタイミングでしか(まだ仕事がなく、時間だけはあったので)できない仕事だったと思っています。と言っても、実際はほとんどボランティアでしたけど...(苦笑)
 
その後もチクマ秀版社刊行の「坂口尚 作品集 "すろををぷッ"」「月光シャワー」「3月の風は3ノット」等の制作に携わり、装丁、本文ページの制作、一部編集的な仕事もやらせていただきました。(※チクマ秀版社は、残念ながら2007年12月に倒産してしまいました...)


坂口尚を深く愛する多くの方たちが同じ気持ちだと思うのですが、私も坂口さんの作品からたくさんのものを受け取ってきましたし、その影響は計り知れません。曲がりなりにも、今自分が「ものをつくる仕事」に関われているのは、坂口尚さんの作品に出会えたからこそ。その感謝の想いを、できることなら坂口尚さんに直接お会いして、言葉でお伝えしたかったのですが・・・。せめて生前に一度でも、ファンレターを送っておけば良かったと、今でも悔やまれてなりません。でもこうやって坂口さんの本に関われたことで、ほんの少しでもお返しできているでしょうか? 古い作品を引っ張り出して出版してしまったことを、坂口さんがどこかで苦笑しながら見ていてくれたらうれしいですが。。

PAGE2007

PAGE2007」に行ってきました。「PAGE」はJAGAT(日本印刷技術協会)が主催する、印刷業会で一番大きな展示会です。毎年2月頃に、池袋サンシャインシティコンベンションセンターで開催されています。
PAGE公式サイト http://www.jagat.or.jp/page/

ここ数年は忙しい時期に重なったりで、見に行くのをさぼってたのですが、たまには新しい流れも勉強しておかなくては思って出向いてみました。どんな業界も、どんな仕事もそうなんですが、自分が一度身に付けた技術や知識に胡座かいてると、それはいつの間に通用しないものになって、前に進むことができなってしまいます。

で、そんなわけでひさしぶりに会場に行ってみたのですが、正直な感想として、あまり目新しいものは感じなかったです。もちろん中には面白いこと提案してるブースもありましたが、全体としては活気に欠けるものでした。印刷の世界は、この10年くらいで劇的に変化しました。一言で行ってしまえば、職人的な技術に支えられたアナログの世界から、PCを中心に置いたデジタルDTPの世界への移行です。90年代後半くらいからその動きが加速し始め、ちょうど2000年くらいがその混乱のピークだったように思います。しかしこの5年くらいは、その混乱も落ち着いてきて、ある意味ではDTPとしての印刷の技術は安定期に入ったのだと思います。「ある意味では」と言ったのは、その一方で、アナログ時代に成熟していたはずの技術が、その現場や職人の退場とともに、急激に衰退し始めた面もあるからです。一度失われたものは、もう戻っては来ません。新しい世代の人たちが、新しい考え方で、既存の技術を再構築していくしかないのだと思います。しかし印刷業界は(それ以上に出版業界は)、非常に保守的です。次の変化を受け入れるのに、長い時間を要するのです。そして印刷周辺の世界は、これからどこに向かっていけばいいのかが見えにくい時代に突入してるんだなぁと、実感しました。

070211.jpg

ちなみに、私は基本的に「古いもの」「アナログのもの」の方が好きな人間なので、「新しいものがすべて良い」とは思っていません。でも、古いものにだけ愛着を持って、新しいものをすべて否定するようでは、それはただの「思考停止」ではないかと思うのです。私は、できるだけ新しい技術に敏感でいたいと思いますし、それをきちんと使いこなせる知識を、その都度身につけていきたいと思っています。

この業界での問題は、あまりにもとってつけたような「新しさ」に振り回されすぎて、DTP以降の技術を「成熟・洗練」へと進められずにいることだと思います。新しいソフトやOSが出るたびに現場が混乱し、その対応に追われるばかりでこの何年かが過ぎてしまったのが実情ではないでしょうか。なんて、偉そうなこと言ってる私も、そうした状況に加担してきた一人に過ぎないのですが。でもいいかげん、ここいらでいろんなことを修正していくべきでしょう。たくさん時間はかけていいと思います。技術変革の低迷した時代が続いてもいいと思います。伝統的な技術にあったものの良さをもう一度みつめ直しながら、変化を恐れず、新しいものへの可能性を探っていきたいです。

広い会場を歩き回ってクタクタになりながら、そんなことをあらためて考えたりしました。
もうひとつ、今回の目的はJPC主催の特別セミナーに参加することでした。セミナーの内容は、「RGB時代に向けて、色演出を考える」(Labレタッチ開眼)、「Adobe PDF Print Engine & PDF/X-4 印刷物に変革をもたらすか」という2つのテーマ。とても興味深い内容だったのですが、それについて書き始めると長くなるので、またあらためて。

マッチ箱アート展

 

「マッチ箱アート展Vol.6」という展覧会に行ってきました。会場は青山のオーパ・ギャラリー。様々なデザイン・趣向のマッチ箱が、壁一面にぎっしりと飾られていました。参加したアーチストはなんと107名! 今回で6回目になるそうで、最初は30名ほどの有志でスタートしたのが、年追う毎に参加者が増えていってるそうです。

マッチは展示だけでなく販売しています。人気のあるものはすぐになくなってしまうということで、そう聞かされるとますます物欲を刺激されてしまいます。でも本当に可愛らしい、素敵なものばかり。かなりツボにはまるものもあったり。欲しいものたくさんあったのですが一生懸命我慢して、でも結局3000円くらい散財してしまいました。

写真左は、イラストレーター&絵本作家の吉田稔美さんの作品。右のかごに入ってるのが私の物色中の品々。とても可愛いイラストの井上コトリさん、消しゴムスタンプを仕込んだ柏瀬乃里子さん、ロシア絵本のような素朴な色合いの中井絵津子さん、などなど。

マッチという一見地味な素材がこんなにも美しく生まれ変わるなんて。楽しいですよね。一昔前は、誰にとっても身近だったマッチ。たくさんの物語の中で大事な役回りをしてきたマッチ。情報を載せるメディアともなり、表現の素材ともなり得るマッチ——。マッチの楽しさや有用性、もう一度見直してみたいですね。こういうちいさなものに創意を尽くしたものって、私は大好きです。「美は細部にこそ宿る」って、私はずっと信じてるので。

オリジナルのマッチ箱、私もつくってみたくなりました。

安房直子朗読館

昨日、「安房直子朗読館その4 〜初雪のふる日〜 」という公演に行ってきました。
安房直子(1943−1993)さんは、「きつねの窓」「鳥」「雪窓」「青い花」などを作品を著した童話作家。私はお名前だけは知っていたのですが、今までちゃんと作品を読んだことありませんでした。今回とても良い機会だったので、会場となる柏市まで出かけてみました。

今回の朗読作品は「初雪のふる日 」「空にうかんだエレベーター」の二編。最初は安房直子さんのエッセイの朗読から始まりました。「好きな絵本ふたつ」というエッセイなのですが、耳を傾けるうちに安房直子さんの文章の心地よいリズムに、さっと、引き込まれてしまいました。そのあたたかさ・・・と言ってしまえば月並みな表現になってしまうのですが、読む人をワクワクさせるような、何とも言えないあたたかさが文章全体に溢れているのです。近江竹生 の朗読も素晴らしくて、気持ちよくその作品世界に入っていくことができました。


◆「初雪のふる日 」は、ちょっと怖くてシュールな物語。石けりをして遊んでいた少女がいつの間にか雪うさぎたちの行列に巻き込まれてしまい・・・。「片足、両足、とんとんとん・・・」の歌とともに、はてしなく雪の行進を続けるうさぎたち。その無表情で淀みない歩みは恐ろしく、そこから出たいのにどうしても抜け出せない女の子。物語が進むうちに、なんとも切ない気持ちになってきます。知らない街で迷子になった時、こんな気持ちだったような。
そして場面場面の情景の描写が、とても細やかで美しいのです。赤いセーターを着た女の子。大勢の真っ白な兎たち。辺り一面に降り積もる雪。どんよりとした寒々しい空・・・なんとまぁ魅力的な色彩の世界なんでしょう。ヴィジュアルなイメージがとても豊かで、絵にしてみたい場面がたくさんあったり。ファンタジーではあるのですが、フワフワして甘ったるいばかりのファンタジーとは明らかに違っていて、しっかりと世界観が描かれているのです。

春の訪れを感じさせる場面では、本当に胸が高まりました。子供の頃、季節の移り変わりにワクワクしていた気持ちを、思い起こさせてくれるようでした。ちいさな葉っぱ一つにも、たくさんの不思議さや驚きが詰まってる・・・そのことにはじめて気づいたときの、誰もが知ってたはずのちいさな感動が、この作品の根っこにあるのではないでしょうか。本当に素晴らしい作品。私はこの物語が大好きになりました。


◆「空にうかんだエレベーター」は、ほのぼのとした、心あたたまる物語。ショーウィンドーの中のうさぎのぬいぐるみを、ガラス越しに毎日じっとみつめてる女の子。女の子はそのうさぎのことが大好きなのです。声にならない声で「うさぎさん、うさぎさん・・・」と話しかけるのでした。そしてある満月の夜、うさぎはショーウィンドーから抜け出して・・・。ストーリー自体よりも、そのディテールの描き方に創意が満ちていて、あり得ないはずの光景が奇妙な説得力を持って目に浮かんできます。そしてその女の子とうさぎのことを愛さずにはいられなくなってしまうのです。この物語には繰り返し歌が挿入されるのですが、その曲は今回の公演のために朗読館の方々が独自に制作されたそうです(ピアニストのTOMOFUMInさんが作曲されました)。その曲が作品世界とよく合っていて、物語の表情をいっそう豊かにしてくれました。

朗読会というものに、私は今まであまり行ったことはなかったのですが、今回の公演は本当に楽しい体験でした。そして安房直子の作品世界にすっかり魅了されてしまいました。こういう優れた作品に接すると、「人間の想像力、その飛翔力って、なんて素晴らしいんだろう!」と、あらためてそんなことを感じるのです。
(私の大好きな坂口尚さんの作品世界とも、重なるものを感じました。「夏休み」や「無限風船」などのファンタジー作品と。朗読を聞いてる途中から、自分の頭の中では坂口さんの絵とコマ割りで物語が進行していきました・・・)


安房直子さんの作品は、少し前まで絶版のものが多く、読みたくても読めない状況だったそうですが、2004年に『安房直子コレクション』(全7巻)が偕成社から復刻されて今では手軽に読むことできるそうです。 どこの図書館でも、たいてい置いてあるそうなので。こんなにも素晴らしい作品なのですから、もっとたくさんの方に知ってもらいと、私も切に感じました。「安房直子朗読館」は今後も定期的に公演活動を続けているそうです。機会ありましたらぜひ一度足を運んでみてください。

《安房直子朗読館》http://www.h7.dion.ne.jp/~takeo03/

もうひとつ活字の展覧会

渋谷PARCOのロゴスギャラリーで開催された「印刷解体 Vol.3」という展覧会を観に行きました。
http://www.parco-art.com/web/archives/logos/insatsukaitai_3/


「活字」と「活版印刷」の魅力にスポットを当てた展覧会。ロゴスギャラリーは、PARCOの地下、本屋さんの一角にある小さなギャラリーなのですが、その壁面には本物の活字棚がずらりと並べられ、和文・欧文の各種活字がぎっしりと詰め込まれていました。さながら昔の印刷所の風景のよう。活字は展示だけでなく販売もされていて、ギャラリーに訪れた若いお客さんたちがピンセットを使って、小さな活字を一生懸命拾い上げていました。とても壊れやすい大事なものを扱っているようで、後ろから見ているとそんな姿がとても愛らしかったです。


ギャラリーには活字周辺の道具なども展示販売されていたのですが、その他に古い印刷物、印刷見本や図案集、チラシ、雑誌、マッチ箱、明治〜大正の頃の教科書などもありました。私はそっちの方が楽しくて、古い印刷物をがさごそと探っておりました。その日は別の用事で急いでいたし、持ち合わせも少なかったので、「今日は見るだけ。絶対買い物はしない!」って心に決めていたのですが・・・いや、やっぱりだめですね。こういうの見ると買わずにいられなくなります。見始めるとどれもこれも欲しくなって、気に入ったものを3点だけ選んで買ってしまいました。

これは大正〜昭和初めくらいの楽譜。昔の楽譜はこんな風に、片面に挿画が入ってデザインされたものが流行ったのです。夢二が描いたセノオ楽譜は有名で、楽譜に興味ない人も、その絵に惹かれて買い求めたようです。当時の女学生たちは夢中だったそうですよ。最初ぱっと見たとき「あれ、夢二のセノオ楽譜?」って、一瞬思ったのですが、違いました。でもレタリングとか、かなり夢二を真似して描いているのが面白いです。


 

上の2枚は1920年代頃のフランス(?)の印刷物。その年の優秀な印刷物のデザインをピックアップして本にまとめた、今で言う「印刷年鑑」のようなもののページの一部なんだそうです。当然ながら活版印刷。何かのラベルなんだと思うのですが、どれも創意工夫があって、上品で美しいです。見れば見るほど愛おしくなってしまいます。他にもたくさん欲しいものあったのですが、この2枚が素朴で気に入ったので買ってしまいました。それぞれ1枚1000円でした。
興味ない人にはゴミと変わらなく見えるかもしれませんが、私にとってはこれも大事な宝物。ときどき引っ張りだして眺めては、楽しみたいと思います。


下の写真は展覧会とは関係なくて、古い付き合いの印刷所で撮らせてもらった活字の写真。そこでももう活字は使われてなくて過去の遺産なのですが、役目を終えた古びた活字たちが工場の片隅で、今もひっそりと眠っているのです。

本当に美しい活版印刷の展覧会

「嘉瑞工房-高岡昌生 活版印刷展」という展覧会に行ってきました。この展覧会のことは、友人のイラストレーター・吉田稔美さんに教えていただきました。早く行こう行こうと思いつつ、気がついたら会期は明日まで。なんとしても観たい展覧会だったので、夕方一人で行ってきました。

展覧会場は、お茶の水の「美篶堂」さん。ギャラリーと、様々な素敵なステーショナリー小物、書籍等を扱ったShopを併設しています。このお店のことは前から気になっていたので、この機会にやっと足を運ぶことができました。少しドキドキしながらギャラリーの扉を開くと、額縁の中にかしこまった美しい活字たちが私を迎えてくれました。
美しいです。それ以上の言葉がありません。風合いのある紙の上に、完璧なプロポーションの文字がしっかりと刻まれ、平面の上にかすかな凹凸が陰影を作り、画面全体が見事な存在感を放っていました。完璧に美しい調和の世界です。見れば見るほど、ぞくっとするくらいに美しい活字印刷。

 
(写真はギャラリーの方に断って撮影させていただいてます)

この素晴らしい印刷の仕事をしたのは、嘉瑞工房・高岡昌生さんという方です。なんとこの度、The Royal Society of Arts (英国王立芸術協会) Fellowに選ばれたのだそうで、今回の展覧会はその記念に制作されたThomas Campbell「HALLOWED GROUND」のお披露目だったのです。
こんなにも美しい活版印刷は滅多に出会えるものではありません。欧文活字の本家、活版に歴史の深いヨーロッパでも、ここまで質の高い印刷を刷れる工房・職人は、今日では希少だと思います。だからこそ英国王立芸術協会で Fellowの称号を得たのでしょう。こういう方が同時代の日本にいてくださることが、なんともうれしくてたまりません。そしてこのような完璧な仕事を前にすると、自分ももっとしっかりと自分の仕事に向き合わなかればって、反省させられるのでした。


美しい活字で刷られた印刷物は、それだけで芸術としての価値があると思います。長い伝統に裏打ちされた「調和」の世界がそこにあります。ただ、私も印刷屋の端くれとして一言添えておくと、活字の印刷が必ずしも美しいわけではありません。「昔の印刷物は良かったのに最近のはみんなダメだ」「本はすべて活字であるのが正しい」って勘違いをしてる人に、たまに出会うことがあって悲しくなるときがあります。そういう乱暴な物言いは、かえって、活版の価値をおとしめてるのではないでしょうか。
私は活版印刷がまだあちこちで現役で使われてた時代をギリギリ知っていますが、実際には粗悪な印刷物もたくさんありました。活版だから美しいのではなく、美しいプロポーションの書体があって、それを完璧な形で彫刻できる鋳造所があって、それらの活字を選定できるセンスの良いデザイナーがいて、手入れの行き届いた印刷機があって、そして熟練した腕の良い職人がいて、それらの条件がうまく整った時にはじめて、本当に美しい活版印刷ができあがるのです。職人と名のつく人が、いつでも良い仕事をするわけではないのです。その見極めは重要です。


本当に良いものと、平凡なものとを見分けていく「目」が大事なんだと思います。そして本当に優れたものには、ちゃんとそれに見合った対価を払っていくという意識を、一人一人がしっかり持ち直すことこそが、これからの時代に問われるのではないでしょうか。なにでもかんでもコストとスピードばかりが優先させるような社会では、伝統に支えられた「良い技術」も、美しいものを生み出す「こころ」のありかも見失ってしまいます。

■美篶堂のHP http://www.misuzudo-b.com/
■嘉瑞工房のHP http://www.kazuipress.com/

「千夜千冊」という冒険

松岡正剛の講演会に行ってきました。
今回の講演会は、松岡正剛が2000年から6年間かけてWeb上で連載執筆した「千夜千冊」を、本として新たに集成した「松岡正剛 千夜千冊 全7巻」の出版記念の特別講演でした。ですので、話のほとんどはこの全集についての解説に沿った話。それでも歴史、宗教、哲学、自然科学、文学、美術、漫画、音楽・・・etc、とあらゆる分野に通じた「千夜千冊」という「知」への冒険の断片を、ほんの少し垣間見させてもらえて、もうこの上なく幸せなひとときでした。

この全集、10万円近くするのですが、講演会聞き終わった直後は欲しくて欲しくてたまらなくなってしまいました。予約申込書にサインする直前で、踏みとどまりましたが。20代の時に、約50万円の夢二復刻本全集を店頭で衝動買いした私ですが、さすがに少しは大人になった(?)ので・・・。でも欲しい。思いがけない収入があったら、そのうち買ってしまうかも。
http://www.kyuryudo.co.jp/Senya-Sensatsu/flame.htm


講演会を聴いて、いろいろ考えさせられたこと、これから考えてみたい宿題を、たくさんもらってきたのですが、私の足りない頭でここに論を展開してもつまらないので、印象に残った話を少しだけ。
「千夜千冊」という執筆活動は6年間にわたって続けられたわけですが、その道程は、松岡正剛さん自身が当初考えていた以上に大変な、壮絶な毎日だったようです。普通の人が何年もかけて読み解いていくような、内容の濃い、重みのある本に、毎日必ず1冊づつ向き合い、格闘し、執筆を続けていったのですから、それはもう私たちの想像を遥かに超えた行為だったのだと思います。

でもそんな過酷な作業の一方で、新たな発見や楽しいこともたくさんあったのだそうです。今回読み直しをする中で、その本に対する自分の認識や捉え方がまったく別のものになることが度々あったそうです。年齢や経験を重ねているわけだから、違って当然なのですが、自分が当初想像していた以上に感じ方に違いがあって驚いたそうです。それから本を読むときにどういうシチュエーションであるのかで、つまり、朝読むのか夜読むのかという時間によっても、仕事場で読むのか喫茶店で読むのかという場所によっても、自分の体調の良い悪いによっても、些細な話、本にカバーをかけて読むのかない状態で読むのかによっても、その本の印象がかなり違ってくるのだそうです。本好きな人なら誰でも、なんとなくうなずける話ではあるのですが、あれだけ本に精通してきた正剛さんが気持ちを込めてそう語るのだから、とても興味深い話した。そして正剛さんが語ってました。「本というものは、二度以上読まないとダメなんだと、私自身があらためてそう思った」と。

 
そして、とてもうれしかったこと! 正剛さんは本を読む時にペンでマーキングをしながら読むのだそうですが、そのペンは「PILOTのVコーンというボールペン、それも青インクじゃないと調子が出ないんです(笑)」とおっしゃってたのですが、私がそのときメモをとってたペンが「PILOTのVコーン、青インク」なのでした。私もずっと愛用してるペン。書く道具って、高級だから良いというものではなくって、その人にとっての「ツボ」のようなものがあるのです。喩えが難しいのですが、背中のかゆいところに必ず手が届く「魔法の孫の手」みたいなものでしょうか(なんと貧相なイメージ…)。とにかく、そんなところに正剛さんとの共通点が見つけられて、私はうれしくってたまりませんでした。思わず立ち上がって「正剛さん、私もです!」と叫びたかったほど。

本当に、私にとってはたくさんの元気をもらえた、心が生き返るような一日でした。正剛さんのような人でさえ、今も毎日、命をかけて書物と格闘している。果てのない「知」への冒険の道を、全力で走り続けている。そのことが心に深く響きました。私も何かやらなければ・・・。たくさんのことはできなくても、たった一つのことでもいいから、自分はこの井戸を掘ったのだと、誇れるような仕事がしたい。帰りの電車の中で、ぼんやりとそんなことを思いました。

恋いこがれる〜ルネサンス・バロック音楽の調べ

友人に案内いただいて、一昨日コンサートに行ってきました。
「恋いこがれる。」
〜ルネサンス・バロック音楽で綴る イタリアの愛 フランスの雅 スペインの舞〜
リュート奏者・井上周子とテノール歌手・長尾譲によるコンサート。

10299457_102.jpg400〜500年前のヨーロッパの音色に酔いしれました。私はリュートの生演奏を間近で見るのがはじめてで、もうそれだけで興奮。井上さんの情感のこもった、それでいて抑制の利いたリュートの美しい音色にうっとりしましたし、長尾譲さんのテノールの声質も素晴らしかったです。プロフィールを見ると、どちらかというとバロックの唱法の方が専門なのかと思うのですが、私は前半の中世風な曲の、少しこもった声の感じ(?)の唱い方がとても魅力的に聞こえました。

演奏の曲目は2部構成になっていて、前半は15世紀末から16世紀にかけてのルネサンス期の音楽、後半は16世紀〜17世紀のバロック音楽となっていました。中世の舞曲風なかわいらしい曲から、オペラの原型を感じさせる高揚感に満ちた曲まであって、とても工夫されたセンスの良い選曲でした。時代や国によって曲の表情は様々で、演奏の仕方や歌唱の方法にも明らかな違いがあって、その変遷を垣間みられてとても楽しかったです。

私は音楽を系統立って聞いてないので、漠然と「古楽っぽいものが好き」と思ってるだけなのですが、今回のコンサートでルネサンス〜バロックの曲をいろいろ聞いてみて、自分が特に好きに思うのはどうやら中世〜ルネサンス期の時代に当たるのだなって確認することが出来ました。自分が良いと思う音楽の基準は「想像力をかきたてるかどうか」という、その1点に尽きます。ですので、時代区分もジャンル分けも本来はあまり意味のないことです。ただ、私にとってはクラシックと呼ばれるものにどうしても興味が湧かなくて、古楽と呼ばれてるものには不思議な魅力を感じてしまって、その理由や境界線がどこにあるのかを知りたいと、ずっと思っていたのです。それが自分なりにちょっと理解できてうれしかったです。

古楽を聞いていると、どこか別の世界に自分を連れて行ってくれるような、不思議な感覚を呼び起こされます。その浮遊感、高揚感は、60年代サイケロックやアシッドフォークの“トリップ感”に通じるものを感じます。個人の内面的な行為と音楽との結びつきがとても強いように思うのです。一方で18世紀以降のクラシックを中心とした西洋音楽は、ステージ上の演奏者と観客との間に距離があるのが前提なようで、音楽は「鑑賞される」ものとして高い棚の上に置かれてしまった印象です。もちろんどちらが良い悪いの話ではなくて。その時代毎に、音楽が担う役割が変化していったのでしょう。そうした流れの継承と反発の系譜で、現代の音楽を見渡してみると面白いですよね。

最近ずっと忙しくてくたびれてましたが、ひさしぶりに文化的(笑)なことに触れられて、心にたくさん栄養もらえました。会場となった、新宿オペラシティの近江楽堂はこじんまりとした空間ですが、音の響きが良くて、今回の演奏にすごく合ってました。観客の皆さんはかなり聞き込んでる感じの方が多くって、著名なプロの演奏家の方もいらっしゃったようです。私なんか場違いでは?と、ちょっと恐縮してしまいましたよ。でも本当に素晴らしいコンサートだったのでもっといろんな人に、特に若い年代の方に、もっと聞いて欲しいなぁって思ったりもしました。

古楽がこれからもっと人気出るといいのですが。古楽が大ブレークして、CDショップでは古楽のスペースがヒップポップをしのぎ、ライブハウスでは古楽ユニットの演奏が大人気で会場はいつも超満員、電車で隣の人のipodから漏れ聞こえる音色は古楽ばかり! なんていう時代は・・・来るわけないか(笑)。せめてもうちょっと、古楽を身近に聞ける環境に、なってくれるといいですよね。

写真は近江楽堂の天井。演奏中に写真撮るわけにいかなかったので。

文楽を観てきました!

「文楽」を鑑賞してきました。私にとっては、はじめての体験でしたし、文楽についての見識は何も持っていないのですが・・・とにかく面白かったです!

今回私が観たのは「天網島時雨炬燵」という演目。愛し合う男女が様々な世事上や人間関係に翻弄されながら、義理を立て、道理を通そうとするうちに、結局は心中へ至ってしまう悲劇の物語です。観始めのうちはどうも調子がつかめず、義太夫節の台詞も聞き取りにくくて、舞台の袖に表示される字幕(?)についつい目が行ってしまって、作品世界になかなか入っていけませんでした。でもしばらく観てるうちに独特な語りの調子も耳に馴染んで来て、繊細で優雅な人形の動きにすっかり見入ってしまうのでした。ストーリーの細かいところとかはわからないままのところも多かったですが、そんなことは文楽の世界を鑑賞するのにさほど大事なことではないようです。ニ転三転していくストーリー展開の面白さ、激しい情念のこもった言葉の力強さに、ただただ魅了され、圧倒されっぱなしでした。

この「天網島時雨の炬燵」は、女同士の「義理」の悲劇を描いた作品ということで、人形の操り方に派手な動きは少なくて、それよりも何気ない身のこなしや、感情の機微を巧みに表現した細やかな演技に見所がある印象でした。登場人物達の台詞の掛け合いが、三味線の音色・リズムと一体となって、次第にドラマとしての高まりを見せていく演出も見事でした。観終わってしばらく経った今も、台詞の心地よい感触が頭を離れません。「あんた、そりゃあんまり情ないわいな」「それで道理は立つかいの」ってな感じの、「〜わいな」「〜かいの」という丸みのある言葉の感触が、もうすっかり気に入ってしまいました。あらためて感じた、美しい日本語の世界。そして濃厚な情のこもった世界。こういうものって、忘れちゃいけないですね。

で、実は今回一緒に観に行った友人の一人が、演者に知り合いがいるということで、なんと幕間の時間に楽屋へ遊びに行かせていただいたのです。短い時間でしたが、人形を間近で見せていただいて、舞台裏も覗かせていただいて、もう、大興奮で感激しまくりでした(笑)。興奮し過ぎであまりちゃんと撮れなかったのですが、その時撮影させていただいた写真をいくつかアップしてみます。

 

美しい人形達をこんなに間近で見ることができました。実際に目の前で動かし方を教えていただいたり。貴重なお話をたくさん聞かせていただきました〜。

これは“舞台下駄”。一体の人形に三人の遣い手がつくのですが、手足でそれぞれ違う位置から操作をするために、このような高さを調整する下駄を履くのだそうです。役者さん達一人一人が自分の下駄を持っていて、舞台と役に合わせて選んで履くのだそうです。さすがにすごく使い込んであって、いい味を醸し出してます。これを間近で見れたのも感動ものでした。
文楽、本当に面白かったです。またぜひ観に行きたいです。

 

ノーム・チョムスキー

仕事の用件で渋谷に出たのだけど、お客さんの都合で急にぽっかり空いてしまった。仕方ないので何気なく本屋に寄ってみた。何も買いたいものはなかったのだけど、本への誘惑にどうしても勝てず、またあれこれと予定外な買物をしてしまった。前から気になっていた、チョムスキーの著作を2冊。『ノーム・チョムスキー』と『チョムスキー、世界を語る』。それから池澤夏樹の『イラクの小さな橋を渡って』という本も気になったので買っておいた。
多くの人にとってそうだと思うのだけど、今世界で起きていることがどうしても私にはどうしても理解できない。過去の歴史の中で幾度もその間違いに気づきながら、何故今日にいたっても繰り返し戦争状況をつくり出してしまうのか...。その問いに一番ちゃんとした案内を与えてくれるのが、チョムスキーなんだと思っていた。
家に戻ってすぐにその一冊を読み終えたのだけど、明解な言葉で、辛らつに、私たち自身が参加してきた「テロ行為」について言及されていて、強いショックを受けた。だんだん背筋が寒くなって、泣きたい気分になってくる。何かしら急に世界が変わったわけじゃない。ずっと以前から、こうなるべき方向に向かって皆で突き進んでしまったんだと思う。私たち自身が、皆で知らないふりをして。

本当に美しいもの、大事なものは、私たちのすぐ身近にありながら、たいていの場面で私たちはそこから距離を置いてしまっている。本当に忌むべきもの、危険なものは、私たちとは疎遠であるように感じながら、実はそのまっただ中にいるのだ。せめてそのことをもう少し自覚していたい。


『ノーム・チョムスキー』(発行/リトル・モア)は、1〜2時間もあれば読んでしまえる本です。機会があったらぜひ手に取ってみてください。今日に生きる私たちにとって、最低限知っておかないといけないことが語られている本だと思います。

ドリーミング

最近またケイト.ブッシュのCDを聞き直している。私は彼女の音楽を、BGMとして聞くことができない。軽率な態度で聞くことを許さない程に、彼女の音楽はあまりに深遠で、不可解で、神々しい。
殊に『THE DREAMING』の頃の彼女の音楽は、心の叫びのようなものに満ち満ちていて、胸をえぐられるような気持ちになる。純粋と狂気の入り交じった特異な世界。こんな音楽を創造してしまう才能は、もう二度と現れることはないんじゃないだろうか。本当に特別な人だと思う。

私は20代の半ばくらいの頃に、ケイト・ブッシュの音楽を毎日のように聞いて過ごした。あの当時、私はすっかり目標を失っていて、絵を描く意欲もなくしていた。今思い起こすと、心のバランスを少し崩していていたようにも思う。私は誰かに寄り掛かったりするのが嫌いだったから、誰の助けも求めずに一人でもがいていた。そんな時、ケイト・ブッシュの音楽を聞くと、心のずっと奥深いところに、かすかな明かりが灯る思いがしたものだった。以来私にとってケイト・ブッシュの音楽は、欠くことのできない大事なものの一つになっている。

さてそのケイト・ブッシュだが、前作『レッド・シューズ』を出して以降、表舞台からまったく姿を消してしまった。もうかれこれ十年くらい新作を発表していない。私はその後の事情をまったく知らなかったのだけど、どうやら子供を生んでお母さんになって、しばらく音楽活動から遠ざかっていたらしい。ところがネットで探った情報によると、現在(昨年から?)ニューアルバムを制作中らしい! 長い空白の後に、彼女がどんな音楽を聞かせてくれるのか、今から待ち遠しくてならない。

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ハインリッヒ・フォーゲラー展

001.jpg『ハインリッヒ・フォーゲラー展』を観に行ってきた。開催前からずっと楽しみにしていたのに、結局観に行ったのは終了ギリギリになってしまった。

私はフォーゲラーのことを竹久夢二を通じて知った。夢二についての卒業論文を書いたことがあって、そのための資料文献の中で、フォーゲラーという画家の名前と作品を知った。そしてある時期にフォーゲラーの絵に夢中になっていたことがあった。幻想的で物語性を感じさせる作風は非常に高い次元に昇華されていて、その豊かなイマジネーションと卓越した表現力において、同様の作品を描く画家達の中でも抜きん出た存在だった。しかし画集等をいくら探しても見つけることができず、とても悔しい思いをした思い出がある。少ない文献を手に入れるために、研究機関に手紙を書いて資料を送ってもらったこともあった。

そんなことを思い出しながらの今回の展覧会。会場につく前にこそ胸が高まっていたが、いざ作品を目の当たりにすると、案外冷静に作品と向き合う自分がいた。強く衝撃を受ける程の作品は意外に少なかった。油彩画より、やはり初期の版画や装丁・挿絵などの作品に優れたものが多かった。ロシアに渡ってからの後期にいたっては、同じ画家の作品とは思えない程、その作品世界の質が変わっていた。
20世紀初頭の激動の時代に、ロマン主義的な芸術運動の実践から次第に社会改革思想へと傾倒していく一人の画家の人生を、ドラマとして捉えれば面白がる人は多いかもしれない。しかし私はそんなことより、崇高なまでに繊細で美しかった作品世界が、次第にただ甘ったるいだけの様式美に陥ってしまう、その変容の仕方に興味がある。はかなさや曖昧さ、中性的なものに美の所在を求め、作品の主題として描いた画家達は、みんな同じ経緯をたどる。夢二も同じであった。傑出した作品を描き得るのは若い頃のほんの短い期間で、その後は霊気が去ってしまったかのように別人の絵になってしまうのだ。その理由を私は知りたい。

会場にはフォーゲラーがデザイン・設計したというベンチ椅子が展示されていた。会場の係りの人が「座ってもいいんですよ」と声をかけてくれたので、その椅子に座ってしばらく呆然と時を過ごした。たくさんのフォーゲラーの作品をぼんやり眺めながら、いろいろと考え事をした。もっと早くにこれらの作品に接することができていたら、自分にどれだけ深い影響を与えたことだろう。あまりにも長い間待ちぼうけをくって、恋い焦がれていた想いが少し褪せてしまった気がする。かつての憧れの人は今なお美しく、私の片想いは間違いではなかったと知ることができた。でもちょっとせつない。

ブルガリアン・ヴォイス

ブルガリアン・ヴォイスの来日コンサートに行ってきた。
会場はお台場のLOVE GENERATION。オリジナル・ブルガリアン・ヴォイスのソリストを中心に、男性ソリスト(1名)とガドゥルガ奏者を加えた総勢13名の編成だった。
ブルガリアン・ヴォイスが話題になり、私たちの間でもCDを回しあって聞いたのは、もう十数年前のこと。私が大学2〜3年生の頃だった。ブルガリアン・ヴォイスの登場は、その頃のひとつの事件と言える程、その神秘的な歌声と音楽性は大きなインパクトをもっていた。

今でこそいろんな国の民族音楽が手軽に聞けるようになったけれど、あの当時は世程その方面の知識がない限り良質な音源に接するのは難しい状況だった。東欧の音楽のことなんて、身近で話題にする人もいなかった。せいぜい「エスニックブーム」と呼ばれた軽薄な流行感覚で、アジアやアフリカの陽気なリズムを取り入れた音楽がつかの間人の注目を浴びる程度だった。それがブルガリアン・ヴォイスの登場により、私たちを囲む音楽状況がずいぶん変わったと思う。ワールド・ミュージックという呼称が一般的になり、今ではCDショップに行けばささやかながらもその類いのものを置くコーナーがある。その影響は計り知れない。

そんな当時のことを思い起こしながらの今日のライブ。彼女達の驚異的な歌声の力は健在で、やはり素晴らしいものだった。CDで聞き慣れた曲を、目の前にいる生身の人間が肉声で発している光景に少し戸惑う気さえした。ただ当時のような新鮮な驚きはなく、何というか、心地よいものに触れていられる安心感という印象だった。思い出のある懐かしい土地に帰ってきたような心地だった。

レストラン&ライブステージという会場だったので、とてもくつろいだ気分でライブを楽しめた。過ぎてしまうのがもったいないような夜…。

ルソーのことば

私の枕元にはいつも何冊かの本を置いている。その一冊がルソーの『エミール』中巻。この本には有名な「サヴォワの助任司祭の信仰告白」が収めれれている。私は何か悩んだりした時も人に相談したりはしない。人に寄り掛かったりするのが嫌いだし、できるだけ自分の頭の中で物事を解決するようにしている。でもそれでも道に迷ったり、わからなくなったりした時、私はいつもルソーの言葉に自分を照らしてみることにしている。ルソーのことばは、攻撃的で激しくて、矛盾に満ちていて、そして美しい…。哲学と言うよりひとつの芸術だと思う。
 
以下、私の好きなルソーの言葉の引用……
 
「私たちは、美しいものへの愛をなくしてしまったら、人生のあらゆる魅力をなくしてしまう。狭い心のなかで、いやしい情念のためにそういう甘美な感情をしめつけられてしまった者、ひたすら自分以外のものには愛を感じなくなってしまう者は、もう感激をおぼえることもなく、凍りついた彼の心は歓びにふるえることもない。快い感動に目をうるませることもない。彼はもう何も楽しむことができない。こういうみじめな人間は、もう何も感じず、生きているとも言えない。彼はもう死んでいるのだ。」
 
「彼らが嘆いている弱さは、自分でつくり出していることを、彼らの最初の堕落は自分の意志から生じていることを、たえず誘惑に負けることを願っているからこそ、やがて心ならずも誘惑に負け、それを抵抗できないものにしていることを、そういうことがどうして彼らにはわからないのだろう。」
 
「私は、人間の自由が自分のしたいことにあるなどとは一度も思ったことがない。それはしたくないことを決してしないことにある。」
 
「未開人はいつも自分自身のなかで生きているのに、社会人はいつも自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きることができない。いわば他人の判断から、自分自身の存在感情を得ているのである。」
 
「おそらくあなたの味方になるものは一人もいまい。しかしあなたは人々の証言を求めなくてもすむようにしてくれる証言を、あなた自身のうちに持つことになる。人々があなたを愛してくれようと憎もうと、あなたの書いたものを読もうと軽蔑しようと、それはどうでもいいことだ。本当のことを言い、良いことをするのだ。人間にとって大切なことは、この地上における自分の義務を果たすことだ。そして人は自分を忘れている時にこそ、自分のために働いているのだ。」

ムジカーシュ

御台場までライブに行ってきた。ハンガリーのトラッド・フォークの代表格である「ムジカーシュ」が来日していて、幸運にもその貴重なステージに立ち会うことができた。なんという幸せ。

ムジカーシュはハンガリーの民族音楽やマジャール人の民謡などを題材に、その卓越した演奏技術で作品に昇華し、世界を舞台に活躍を続けている。以前からCDでその音楽を聞いてはいたのだけれど、ライブの演奏は印象が全く違う程に素晴らしく、体が震えるほど感動した。
演奏の途中、男女一組のダンサーが出演し、ハンガリーの伝統的なダンスを披露してくれた。そのダンスがまた素晴らしく、その女性が来ている民俗衣装も美しく、その女性もまた美しく、途中からずっとうっとりみつめてしまった。ダンスの中で女性がクルクルと何度も回るのだけど、その度にしなやかな生地のスカートが優雅な曲線を描いて宙を舞う。その美しさとといったら、たとえようがない。あんな美しい曲線は、どんな優れた詩人だって言葉にできないだろう。どんなに熟練した画家だって描ききれないだろう。どんな精巧なカメラだって再現できはしない。あの美しさは、あの瞬間にあの場面にこそ存在するものだ。人が回るというシンプルな行為が、あんなにも魅力的なパフォーマンスなのだと今まで気づかなかった。身体が放つ美しさを表現するダンスの魅力を、あらためて感じさせてくれた。

私の内で、ハンガリーという国への憧れが、ますます強くなっていく。

本とコンピュータ・シンポジウム

ブックオンデマンド《リキエスタ》刊行&雑誌『本とコンピュータ』第二期刊行記念のシンポジウム(新宿・紀伊国屋ホール)に参加してきた。会場はほぼ満員で、20代の若い人から年輩の方まで、主に出版・編集の幅広い人たちが大勢集まっていた。プロジェクトとしての<本とコンピュータ>という活動が、広く世間に認知されてきたことを実感した。

今から四年前にこの本が出版された時、実際のところ業界の反応はかなりナイーブなものだった。本を作る現場のあり方に保守的な人達は、「変化」に対してあからさまに拒絶の意志を示していた。出版人自らが「変化」の流れをつくり出そうとする動きを、正直、不愉快に感じていた人達があの頃の出版界では大勢いたことだろう(ある時期、津野海太郎は業界バッシングをくらっていたらしい)。電子メディアやオンライン・パブリシングの可能性を模索することは、出版の未来に自ら首を絞める行為になりかねないと、危惧を抱いていたのだと思う。
しかし状況はあれからずいぶん変わった。電子出版など本とは言えないと、バカにして取り合おうともしなかった人達が、今はその可能性を一生懸命探っている。「インターネットと本は、案外相性がいいものかもしれない」だなんて、今頃になって偉そうに主張する人達もいる。たいていの場合、それは自らの防衛手段であって、積極的に価値を見い出してのことではない。でも、それでも何かやらなければいけないのだと、ようやく腰の重たい連中が動き始めたのは確かだと思う。

第1部は、「編集者、わが電子出版を語る」というテーマで、平凡社・みすず書房・岩波書店・文芸春秋・といった、大御所の出版者の編集者たちがパネラーとして主席。出版の現状と未来について意見を述べあった。それぞれスタンスの違いこそあれ、今起きている変化を「出版史における歴史的転換期」としてとらえようとする点で共通しており、前向きな姿勢を感じた。
第2部は、『本とコンピュータ』第二期の編集スタッフが勢揃いして、出版の現場で今起きていることの具体的な問題点や、将来的な可能性について、それぞれの立場に立った考え方を語ってくれた。歴史的な裏づけのあるメディアの形を尊重する意見や、古い衣や慣習的な足枷を早く外してしまった方がよいとの意見もあり、多様な価値観が絡み合いながら展開する議論に、会場全体がおおいに盛り上がった。「紙の本か、電子の本か?」という二者択一的な論点で批判し合うのではなく、互いがそれぞれの優れた要素を積極的に評価し、発展させる段階に来ているのだと思う。

「しかし実際問題、将来的に電子文化産業において利益回収は可能なのか?」「そもそも知的生産物で利益を得ることが妥当なのか?」という重大な問題提起が出たところで、時間がいっぱいになってしまった。そのような本質的な問題と、現状の課題とを見据えながら、これから本誌の中で考えていきたいといううまとめで幕引きとなった。

私は個人的にとても尊敬している「津野海太郎」さんを、間近に見ることができて、それだけで嬉しかった。刺激的な話をたくさん聞けて、こういう素晴らしい機会に自分も立ち合うことができて、本当に楽しい夜だった。
『本とコンピュータ』第二期の刊行が待ち遠しい。

ふたりのチヒョルト

『イワンとヤン・ふたりのチヒョルト』(片塩二朗、朗文堂)という本を読み終えた。1920〜30年代に活躍したドイツ人のタイプグラファー・チヒョルトに焦点を当てながら、モダニズム造形運動について検証した本だ。

20世紀初頭に様々な分野で新しい視点に立った芸術運動が展開され、書籍形成法としてのタイポグラフィも、この時代状況を受けて大きな変革の波にさらされた。チヒョルトが提唱した「ノイエ・タイポグラフィ」はもっとも強い運動勢力となり、その後のグラフィックデザインにとても大きな影響を残すことになる。しかし第二次大戦という不幸な時代に、ナチの宣伝美術にその技法が利用されることとなり、図らずも深刻で暗い歴史の一端を担うことにもなってしまった。
チヒョルトはスイスに逃れ、戦後になってまったく違うスタイルのタイポグラフィの定義に基づいた仕事を始める。「進歩と改革」を礼賛するモダニストの立場を捨て、「伝統と調和」を重んじる立場に転向したのだ。「ノイエ(新しい)・タイポグラフィ」のリーダーであったはずのチヒョルトの、突然の変わり様に、周囲の人達は一斉に非難を浴びせかけ、有名な「マックス・ビルとの論争」へと発展するのである。

あくまでモダニズムの立場に立って「ノイエ・タイポグラフィ」の理論の正当性と有効性を訴える若き芸術家、マックス・ビル。そして持論の障害となるチヒョルトを徹底的に非難する挑発的な論文を発表する。それに対してチヒョルトは、「ノイエ・タイポグラフィの信仰と真実」と題された論文で反論する。そこには、「進歩」に対する盲目的な信仰が歴史的な悲劇を生み、変革への性急な態度が多くの伝統的な優れた技能を破壊し、有能な職人達から仕事に対する誇りと喜びを奪ってしまったことへの反省が、自ら体験に基づいた重みのある言葉でしっかりと綴られるていたのである。その思慮深い論旨と確固たる態度に、私は大変な感銘を受けた。

私はこのような論争があったことを知らなかったのだけれど、この本を読んで、日本と西欧諸国のグラフィックデザインの「質」の違いがどこから生じているのか、その一端を少しだけ知ることができた気がする。西欧ではこのような論争をいくつも積み上げてきたからこそ、「デザイン」というものへの社会的な位置付けが徐々に確立されていったのだろう。日本では理論構築への意志が浅く、歴史的な観点から考察する視点も欠落してしまったために、フワフワとした上辺だけの「デザイン感覚」ばかりが蔓延してしまい、「技術」としてのしっかりとした足場を持たないまま、今日に至ってしまったのではないだろうか。

私たちに周りには、「デザイン」をかこつけた醜悪なものが、あまりにも多すぎる。街を見渡すと、ゾッとする程出来の悪い看板やポスター、印刷物が溢れかえっている。どれも押し付けがましくって品がなく、むやみに騒々しい印象をまき散らす。新しさや奇抜さばかりを際立たせることがデザインの仕事ではなかったはずだ。物と人との関係に、どのような調和を与えうるか、それがデザインというものの本来の役割ではなかっただろうか。今日の社会の中でのデザインの位置付け、デザインというものの基本的な機能・役割を、もう一度捉え直していく作業が必要なんだと感じる。

紙一枚にも、文字のひとつとっても、それぞれに歴史があり、文化がある。古いものが必ずしも正しいわけではないのだけれど、伝統的な技術には理に叶った、確かな調和の世界がある。そこに学ぶ謙虚な気持ちを忘れてはいけないと思う。一度失った技術は、もう戻っては来ないのだから。

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