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分かち合う

近頃道を歩いていて、ときどきため息をついてしまう。いい歳のおっさんがため息ついてるのは気持ち悪いからやめようと思うのだけど、ふとまた、ため息ついてしまう。

人と一緒に仕事をしていると、人がどんどん信じられなくなってしまうようで、そんな自分が嫌で前の会社を辞めた。でも一人で仕事始めても、人と関係を持ちながら仕事することに変わりがないのだから、結局状況は何も変わらない。自分の身を守ることばかりを考えてる人が多すぎて、ときどきやりきれなくなってしまう。

少し前のことになるけど、『少女の髪どめ』というイラン映画のチラシに綴ってあった監督の言葉が、とても美しく、印象に残ったので書き留めておく。

---「少女の髪どめ」は過去30年に渡ってイランで生活してきたアフガン難民の一端を示しています。私たちは人種や肌の色に関係なく、みんな人間という存在なのではありませんか?
ですから、もしも世界のどこかで罪のない人々が害を被るようなことがあれば、私たちはその痛みをみんなで分かち合うべきです。
愛にはあらゆる境界線を超える力があります。世界が戦争ではなく、愛によって支配される日を夢見ようではありませんか。
---マジッド・マジディ

お互いに奪い合うのではなく、苦しいこともうれしいことも、お互いに分かち合うこと。自分だけのことに完結しない。そういう考え方がとても大事なんだと思う。皆がそういう地平に立てれば、私たちの世界はもっと豊かになるんだと思う。

習い事

今、とある専門学校の「学校案内」を作っている。時間のない中、自分なりに一生懸命作っているつもりなのだけど、なかなかしっくりした形にまとまらない。ふと気付いたのだけど、私は今まで「学校案内」なるものを、大学受験の時以来、ほとんど手にしたことがない。実際に手にとる人の気持ちがわからないから、具体的なイメージが掴めないのかもしれない。

私は、「先生」という立場の人から何かを教えてもらうのが嫌いで、専門学校とか教室とか、そういう類いに通ったことがほとんどない(唯一通ったのは、小学生の時のソロバン教室くらい)。印刷もデザインもパソコンのことも、一度も学校には行かずに、自力で覚えた。基本的に、人から指示を受けるのが嫌いなのだ。私は、かなり頑固で、わがままで、人の助言を聞かない。昔からずっとそうだった。

人の助言を聞けない自分の性格は、できることならこれから少しでも改めていきたいなって思う。でも、ずっと自己流で通してきたことで良かったこともある。そのひとつが、絵についてのこと。どこかの時点で専門的な教育を受けていたら、私は絵を描き続けていなかったんじゃないかって思う。「絵は、人に教えてもらうものじゃない」っていう、父の言葉が与えた影響が大きかったのだけど。
でもそれは、今になって整理して考えられること。昔、「美大に行く、行かせない」で、父と大喧嘩したんだよなぁ・・・。

理屈にこだわる

人のためを思って一生懸命やったことが、良い結果に結びつかないと本当にがっかりする。自分のしたことが、状況によって無駄になってしまうのは仕方ないことだと思う。でもそのことで誰かに迷惑をかけたり、かえって事態を紛糾させたりすることがあると、とても悲しく思うし、やりきれない気持ちになる。

ひさしぶりにひどく落ち込んだ気分で、今日は一日仕事が手につかなかった。いろいろと考え詰めていくと、結局は自分の問題に行き着く。結局、自分の裁量も考えず、余計なことにいつも首を突っ込んでしまうから、こういう状況に追い込まれてしまうのだ。中途半端にしかできないことは、最初から何もしない方が良かったりもするのだ。今までも何度も痛い目にあって、その度にそう思うのだけど‥‥。また懲りずに、いろんなことに手を出してしまう。本当にダメな人間だなぁと、自分で思う。もう少しやり方を考えなければ。

複数の人が共に仕事をしていくためには、いかにして互いの合意をつくり出していくかが、一番大事な作業だ。会社の中でも、学校の教室の中でも、友人グループの中でも、家族の中でも。合意形成のためには、理屈と筋道に沿った話し込みが必要だ。その手続きを踏まないで、ただその時々の気分や雰囲気で人を束ねていくと、人の集団というものは時折奇妙な暴走を始めることがある。集団形成にそぐわない人達を排除したり、集団内の強者が弱者に対して暴力(「言葉」を含めて、いろんな形で)をふるったり・・・。その不幸な暴走を防ぐためには、やはり合意形成のための話し込みの作業が不可欠なんだと思う。

理屈と筋道を唱え続けるのは、とても大変なことでエネルギーがいる。周囲の動向に合わせてのらりくらりとやっていれば、周りから叩かれたり孤立することもない。でも私は思うのだけど、所謂「事なかれ主義」の無責任な態度が、世界のいろんな深刻な問題の根本に横たわっているんじゃないだろうか。そしてそういう風潮が、近頃の私たちの社会でますます広がっているように思えてならない。問題の根は、私たちの極身近なところにあるんだと思う。理屈にこだわり続ける勇気を持ちたい。

銀座の辛来飯

昨日、原稿を届けに銀座に出た。お昼時、なんだか無性にカレーが食べたくなって、前から気になっていたお店に行ってきた。

銀座の表通り、周りに小奇麗なお店が立ち並ぶ中、その店はちょっと異様な雰囲気と存在感を放っている。古びた看板には「辛来飯と珈琲の店 ニューキャッスル」と書いてある。「辛来飯」というのがカレーライスということらしい。雑誌に紹介されることも多いらしく、お店の前にその掲載記事が貼ってあったりもする。そのカレーライスの写真が、なんとも言えず、美味しそうで、一度食べてみたいと思っていたのだ。
お店の中も外観同様に、昔風な喫茶店そのまま。それをスタイルとしてやっているのではなくって、ただ昔建てたお店がそのまんま古くなっただけという感じ。しかも、ちょっと猫臭い。そういえば表には猫のエサ置きあったっけ。こんな街中で、そのアンバランスな感じおかしくって、そして心地よかった。

さてそのカレーライス。まさに日本のカレーライスであって、いかにも喫茶店で出てきそうなカレーライス。でも一口食べれば、なかなか手が込んでいるのがよくわかる。スパイスもたくさん入ってた。このお店のファンが多いらしいのも納得。おいしかった!

銀座にあって、珈琲210円という安さにも驚いた。。。

私のまちがい主義

The road to wisdam? Well it's plain
and simple to express:
   err
   and err
   and err again
   but less
   and less
   and less

(訳)知恵への道? あっけないほどかんたんに言える
    まちがえて
    またまちがえて
    またしてもまちがえて
    ちょっとりこうに
    またちょっとりこうに
    またちょっとりこうに

(ドナルド・クヌース著『クヌース先生のドキュメント纂法』より)

 この言葉は、私が熱く敬愛する、津野海太郎さんの『本とコンピューター』という本の中の引用からの引用。私はこの言葉がとても好きで、何かうまくいかないことがあったり、考えが行き詰まったりした時には、いつもこの言葉を思い浮かべるようにしている。 津野海太郎さんはこの本の中で「まちがい主義の系譜」という章を設けて、この言葉が示唆することの大事な意味について、かなりの重点を置いて語っている。

その本の、同じ章からの引用・・・

 人間は早とちりをし、かんちがいをし、すぐに飽き、慌てて絶望し、目前の状況にせかされて、へんな理屈をむりやり組み立ててしまう。誤解につぐ誤解、まちがいにつぐまちがい、それが私の毎日である。  と認めた上でいうのだが、だからこそ人間は、あざやかに飛翔したり、矛盾を矛盾のまま保持し続けたり、見えないものを見たり、奥行きのある認識を他人につたえたりすることができるのだろう。「まちがい主義」の観点からすれば、まちがいは人間の無能力のあかしなのではない。むしろ、人間にはまちがう能力がある、といった方が正確なぐらいのものなのだ。いまから十数年前、それまで「まちがってはいけない主義」にとらわれて窮屈な思いをしていた私をいくらか楽にしてくれたのも、鶴見氏が紹介する「まちがい主義」のこの側面だった。

そして私のこれまた大好きな、鶴見俊輔氏の言葉の引用・・・

 絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、これらは、われわれの経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、マチガイの度合いの少ない方に向かって進む。マチガイこそは、われわれの知識の向上のためにもっとも良い機会である。したがって、われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、それがマチガイであったなら最もやさしく論破できるような仮説をこそ採用すべきだ。

・・・こういう言葉、ものの考え方ににふれるとほっとする。私はまちがってもいいんだな、ここにいていいんだなって、安心することができる。でも、自分の頭の中のお粗末な回路は、同じ間違いを繰り返して軽率な「エラー音」を鳴らしてばかり。これじゃいつまでたっても「ちょっとりこうに」なれないだろうな。。 少しは前に進まなきゃ。

うねり

人の思いが集まり、高まっていって、ひとつのうねりとなり、状況を変えていくことがある。

つい先日も、たくさんの人たちが連係して成果を上げた、とても劇的な感動的な出来事があった。私は今まで何度かそういう場面に立ち会うことができた。そういうことがある度に、世の中捨てたもんじゃない、人の切実な思いは必ず実を結ぶものだと、そんな風に感じる。
一人では何もできなくても、大勢の人の善意が集まれば、状況を変えていく力になり得る。世の中そんなに甘くないよ、なんて、苦言をささやく人達がいる。そうかもしれない、と思わないわけでもないのだけれど、私自身は必ずしもそんなことばかりじゃないだろうって、思ってみたりする。現実をそのまま受け入れることより、夢を見続けようとする行為の方が、時には難しいことであったりもするのだし。

自分が最初に大事だと感じたこと、ずっと大切にしたいと思うもの、人、夢、世界‥‥それをいつまでもあきらめずに、思い続けることは大事なんだなって、思った。思い続けることが、いちばん大事。

魔法びん

先日、ステンレス製の魔法びんを買った。と、あらためて書き綴ってみると、「魔法」という言葉がなんだかとても大袈裟でおかしい。

魔法びんが製品化されたのは、1904年。ギリシャ語で「熱」を意味する「THRMOS」と名付けられたとのこと。その後世界中に普及していって、日本に輸入されてから「THRMOS=魔法びん」と呼ばれるようになったらしい。「魔法」という言葉を付け足したのは日本だけの事情のようだ。きっと、この商品が世に現れた時、そう呼びたくなるくらいに、皆が感心して驚いたんじゃないだろうか。そんな当時の感動を想像してみるのは、なんだか楽しい。

朝に煎じたお茶を、魔法びんに入れておきさえすれば、夜になってもまだアツアツ。電気も何も使ってないのに! お茶も珈琲も、電気ポットだと煮詰まってしまうのに、魔法びんなら風味があまり落ちない。しかも省エネ。省スペース。魔法びんって、なんて便利なんだろう! と、今さらながらに感激している私はおかしいんだろうか。

ロウソクに火を

急に、無性にドストエフスキーをまた読みたくなって、出先の本屋で、まだ読んでいなかった『白痴』を手にとった。ときどきこういう「心にズシンと響くもの」に接したくなる時がある。
とりあえず電車の中で100ページぐらい読み進めたけど、ドストエフスキーの文学の感触はやっぱり特別なものだと、あらためて感じる。作品世界にはまり込むうちに、ひどく気が滅入って落ち込むのだけど、それが却って心地良かったりもするのだ。心が弱っている時には、余計に心に染み渡る。しばらくはこの本を読む時間を楽しんでいよう。

この本ともう一冊、私の大好きなカール・セーガンの著作が目に止まったので、その本も一緒に買い置いた。
その本の序文に、こんな言葉があった。

「暗闇を呪うよりも、ロウソクに火をつける方がよい」(格言)

偶然手にした本に、こんな素敵な言葉をみつけて、私はいたく感激してしまった。あれこれ気を煩ったりしてるより、とにかく今自分ができることを、ひとつひとつしていくことが大事なんだと思う。何かしらほんの少し、世界を明るくさせるような「ちいさな仕事」を。

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