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表現者とメディア

JPC Conference 2001】に参加してきた。

このカンファレンスに参加するのは2回目。とても面白そうな課目が揃っていたので、朝起きして会場の多摩美キャンパスまで足を運んだ。一日目は『デジタル送稿DAY』を掲げたカンファレンスとセミナーが開催された。午前中私が選んだセミナーは『カラーマネージメント、リモートプルーフ、PDF etc...最新ワークフローによる雑誌制作の現場』、午後は合同のカンファレンスで、電子送稿の実情やそのワークフローのあり方や問題点、課題についてのスピーチやディスカッションがあった。午前10時から始まって、終わったのは夜の7時近く。こんなに長い時間集中して講議を受けたのは、大学にいた時さえなかった気がする。終わる頃にはもうぐったり・・・。いろいろ考えさせられて、とても良い時間が持てたのだけど。

二日目は『パブリッシング ニューメディアDAY』。オープニングは村上 龍×伊藤穰一という豪華ゲストの対談があった。「表現者とメディア」というテーマで、新しいメディアは表現する側にどのような影響を与えるのか、それは私たちの生活にどのような変化をもたらすのか、を語ってもらう内容。しかし二人が話し始めるとどんどん脱線していって、途中から時間も気にしないくらい話が盛り上がって楽しかった。

そもそもメディアとは何なのか、表現とは何なのか、これからの時代に何を表現していくのか、表現する必要をどこに感じていくのかという、本質的な問題にまで踏み込んだ議論となった。話を聞きながら、いろいろと考えさせられた。結局大事なことはメディアの有り様ではなく、私たち自身の生き方の問題なのだと気づかされる・・・。

近年本の売り上げは連続して落ち込んでいる。映画業界も冷えきっている。音楽業界もいくつかの「大ブレーク」をかすかな生命線としている現状だ。旧式のメディアは消費を生まない、もう井戸は枯れてしまったとばかりに、皆が新しいメディアへ横滑りして新しいビジネスを期待する。
一方で、「大事なのはコンテンツ、その中身」と言われ続けて久しい。大きな企業はこぞって、新しいコンテンツ探しに躍起になっている。でもそこで言われているコンテンツとはそもそも何なのか?実際、新しいメディアは新しい消費を生んでいるのか?新しい技術の登場で何かが変わったのか? 
—---何も変わっていないのだ。以前より豊かになった分野など見当たらない。新しいメディアに特性を発揮した表現が、何かしら現れ始めたとも思えない。企業が提供するコンテンツはどれも皆、相変わらず大量生産・大量消費を前提とした価値観を反映したものでしかない。

長い間私たちの世界では、大きくなること、数が増えること、成長していくことが何より価値を持っていた。国でも、企業でも、私たち自身の生活の中でも、それは信仰にも近い扱いで優先されてきたと思う。でも今では誰もがそんなものは幻想だったと知っているし、永久的な成長などあり得ないとわかってしまった。まず私たちの価値観が変わりつつある。そしてメディアの果たす役割も変わってきた。今はその大きな転換期にあるのだと思う。
しかしメディアに携わる人達は、相も変わらず同じような情報を発信してばかりいる。そして私たちも、相も変わらず同じような情報にしがみついて生きている。ちょっといいお店、ちょっとかわいい服を知って、それが私たちの生活にどれほどの意味を持つというのか。そこに何もないことがわかっていても、私たちはやっぱりテレビや週刊誌やスポーツ新聞を見ることに、毎日たくさんの時間を潰してしまう。私たちは周りの人達から遅れてしまうことを、そこから外れてしまうことを、何より恐いと思うからだ。私たち自身のこの体質を変えない限り、日常の風景も変わっていかないだろう。本当に必要な情報は得られないだろう。生活は豊かにならないだろう。住み心地のいい世界は拓けていかないだろう。

日々変化の幅は大きく、そのスピードも早い。新しい時代の波に乗っていくことは大切なことだと思う。でもその一方で大事なことは、周りの変化に振り回されないための「自力」を、自らが培っていくことだと思う。そのための時間とエネルギーを費やす努力なくして、この不毛な競争の監獄から抜け出すことはできないだろう。

伊藤穰一が語っていた。—---経済的な成長が何よりも優先される時代は終わった。お金は既存の社会の中での、ただの約束事に過ぎない。お金が人を「ハッピー」にはしてくれない。お金自体に価値はなく、お金をバリューに変えていく技術や手段こそが大事—--- 心にグッっとくるメッセージをシンプルな言葉で伝えてくれた。

ハッピーであること。そういうシンプルな考え方が、今の時代に一番必要なことかもしれない。今はまだ「ハッピー」を測る物差が揃っていない。私たち自身のライフスタイルの選択の仕方が問われているのだと思う。

いろいろと考えさせられることの多い二日間だった。

羊とドーナツ

最近になって、村上春樹の著作を読み始めた。ハッキリ言ってまったく関心はなかったし、おそらく一生読むことはないと思っていた。別に根拠があって嫌っていたわけではないが、手に取る理由もなかった。性格がひねくれているので、ベストセラーを出すような作家は、基本的に読まないことにしている。第一、この時代にたくさん売れる本なんて、どこかうさん臭い気がしてならない。
 けれども、私の親しい友人達が「村上春樹」の名前を口にすることがあんまり多くって、だんだん気にかけずにいられなくなってしまった。「いるかホテル」やら、「羊」と「耳」の話がどうのこうのと、私の参加できない話を傍らで続けられると、なんだか悔しい気持ちになってくる。そしてとうとう私も本屋に駆け込んでしまった。
とりあえず『羊をめぐる冒険』から読み始めた。その日のうちに一冊の半分くらい読んでしまった。とても面白い。つい続けて読んでしまうのは、その文章の読みやすさばかりが理由ではないだろう。何かしら特異な雰囲気につい引き込まれてしまう。今の時代に皆が共通して抱いている息苦しさやもどかしさ、漠然とした喪失感、不確かな存在感を、とても上手に表現できている作家なのだと思う。文章の質感・仕組みが、従来の小説家のタイプとはどこかに違っていて、むしろコピーライターの仕事に通じるものを感じる。ストーリー展開のための文章は非常にあっさりていて、実際どうでもいいもので、その前や後にかかる文脈の方が作品のエッセンスになっている。その何気なく書かれた情景描写の中で、私たちはつい微笑んでしまったり、立ち止まったりするのである。所謂<文学体験>というものに重心はなく、ある種の「雰囲気」や「気分」を、読者が「読む」という行為によって「共有」できることにその面白さがあるようだ。

 どうでもいいことだが、本の中で「羊」と「ドーナツ」の記述があって、ちょっと面喰らった。私はずっと以前から、「羊とドーナツ」をモチーフにした作品の構想をあたためていたからだ。どういうわけだか、私にとっては「羊」と「ドーナツ」がとても相性がいいものだと考えてしまうのだが、いかがなものだろうか。連続パターンの図柄にして包装紙にしたいと思っている。

休日。ある一日。

ひさしぶりに、平日に会社の休みを取った。せっかくの休みなので、寝坊してはもったいない。でも目が覚めたのはもうお昼近く。会社からの電話で起こされる。

まずは電車に乗って隣の駅へ。ガス料金を払うという大事な用事。あと3日で止められるところだった。銀行の引き落としにすればいいのだが、そう思いながらもう十数年たってしまった。窓口にいたおばさんが、コンピュータのキーボードを器用に打って画面で料金を確認をする。私がお金を出すと、おもむろに机の下からそろばんを取り出し、釣り銭の計算を始めた。あのおばさんにとっては、そろばんに勝る計算機は他に考えられないのだろう。

野方のバス停で中野行きのバスを待っていたら、「地鶏のどらやき」という看板が目に飛び込んできて、ちょっと面食らう。よく見たら「地鶏の卵を使ったどらやき」ということ。別段おかしいものでもなんでもない。けれど私の頭の中には、鳥肉味のどらやきの印象が離れない。バスに乗ってからも、しばらくこの馬鹿げた連想を追いかけてしまう。

さて、中野区役所に到着。要件は住民票の写しをもらうこと。ところが印鑑を忘れてしまった。さて困った。印鑑がなくてもいいのか聞いてみると、窓口のおじさんはニッコニッコしながら、「いいですよ!いいですよ!」と促してくれた。近頃は役所の職員も、ずいぶん腰が低くなったものだと感心する。用紙を提出して身分証を出そうとしたら、「身分証?それじゃあ、ま、いちおう見させていただきましょうか」と言って、私の免許証をちょっと眺めただけで、すぐに書類を整えてくれた。腰が低いのはいいことだけど、フレンドリーすぎないか?

それから吉祥寺まで行って、眼鏡を買う。もうすぐ免許の更新なので、用意しないわけにはいかなかった。2年前に飲み屋でなくしてしまってから、ずっとそのままでいた。日常生活の中では、別に困ることはなかった。だいたい物事は、よく見え過ぎない方がいいのだから。

眼鏡の受け取りまで時間があったので、吉祥寺の街をしばらくブラブラする。平日の街中を気ままに歩くのは、本当に久しぶり。とても気分がいい。パルコの地下の本屋を物色する。ここの本屋は、いつ来てもとてもセンスがよいのだ。外国の文学の書棚が今も充実していて安心する。でも思想書のコーナーがずいぶん縮小されていた。「癒し」系や、「励まし」系の本がここでも多大な面積を浸食してるのだ。こんな状況を今更いちいち嘆いていられないのだけど、なんとなく寂しい気分になる。

仕上った眼鏡を受け取ってから、上野まで移動。ちょっと怪し気な映画館で、テリー・ギリアムの『ラスベガスをやっつけろ!』を観る。実は、これが今日一日の一番大事な用件だった。テリー・ギリアムは、私の期待を裏切ったことがない。今回も期待以上に私を楽しませてくれた。最高にエキサイティングで、最高にイカレた映画。監督自らが、「この映画を世に送りだしたことで、何をしでかしたか、何を招いたかは定かではないが、前もって謝っておきます」という言葉通り、不快なものが満載で情緒のかけらもない。全編にわたりドラッグの嘔吐感に支配されるのであるが、観ているうちに不思議と爽快感がこみ上げてくる。

この作品によって決別するものとは何か? 「アメリカンドリーム」という名の幻想と統制のシステム、70年代ライフスタイルへの浮かれた回帰願望、「カウンターカルチャー」という言葉への過剰な期待、「愛と平和」をドラッグによって買えると信じた若者たち、そしてその過ち---。そんなうさん臭いものをすべてを払拭してくれるのが、この映画なんだろう。監督が語っている、「この時代に切望される映画作品だと思っている。『ラスベガスをやっつけろ!』は90年代用の浣腸だ!」---90年代の締めくくりにふさわしい映画だと思った。

気分良く劇場を出て食事する店を探していたら、どこも若い男女で満席だ。なんなんだ?……あぁ、そうか、今日はホワイトデーとかいうものらしい。イカレた映画を見て一人で喜んでるのは私くらいか。

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