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Writings

悠々として急げ

先日の土曜、横浜・氷川丸ブルーライトホール「船の上はセンジョウだった。マーシュ・マロウ VS 谷川俊太郎、谷川賢作」っていうライブに行ってきた。横浜中華街→山下公園→氷川丸という、なんだかバブル時代のデートコースのような順路で、ちょっと気恥ずかしかったのだけど。船の中のホールということで、ゆったりした気分でライブを楽しめるのかと思ってたら、会場に着いたらすでに鮨詰め状態。暫し愕然としてしまう。というか、2時間半立ったままは辛すぎる。でも谷川俊太郎の詩と朗読が、やっぱりすばらしかった。一瞬にして周りの空気を変えてしまう、そういうエネルギーを持ってる人だなって思った。

3月ももうあと少しでおしまい。会社や学校では新しい期を迎える。私も4月からは、いろいろ新しい仕事が動き始めて、また忙しい日々に突入しそうだ。少しのんびりしたペースが続いたあとで、また忙しい日々に突入するのは、とても気が重い…。でもそんな甘いこと言ってもいられないので、また気持ちを切り替えて新しい仕事に向き合っていくしかない。もっとがんばって、もっとちゃんと稼いで、自分の目標に近づいていけるようにならなければ。周りの人から助けられてばかりの自分だけれど、今度は私の方が人の役に立つ仕事をしていきたい。自分の大事なものを守っていけるようになりたい。もっとしっかり。もっと急いで。。。

あせっても仕方ないけれど、今やるべきことにもっとしっかり取り組んでいかなければ、という気持ちでいる。開高健氏が、何かの本に「悠々として急げ」という言葉を書いていたそうだ。釣りの極意として本人は語ったのだそうだけど、いろんな場面で役に立つ言葉だなぁと思う。悠々として急げ---今はそんな気分だろうか。あした、私は37歳になる

飛びこむ勇気

花を見て、美しいから好きと思うのと、花を育てるのが好きということとは、必ずしも重ならない。子犬を見て可愛いと思うのと、実際にその子犬と暮らすことの大変さを実感するのには距離がある。人一倍食べることが好きで美味しいものが大好きという人が、料理人や料理研究家になれるわけじゃない。絵が描くのが好きだからといって、絵を描くことを職業にしたら思いもよらぬ違和感を抱くようになる。

何のことであれ、自分の好きなことと、そこに自分の人生を重ねる行為は別なことで、その見極めはつくづく難しいと思う。単に好きだからとその対象に近づき過ぎると、かえって熱意を失ってしまったり、苦しい思いをしたり、知りたくないことを知って幻滅してしまったり…。そしていつのまにか、自分が大事に思っていた対象を見失ってしまうことだってあるかもしれない。そういうこと全部を乗り越えて、更にその対象に近づいていけるのか、それともどこかで線引きをしてしまうのか・・・・?

「昔みたいに、とにかくアニメーションが本当に好きでまず最初の就職としてね、これで実際食っていけるかどうかわからなくてもやってしまえと、崖から飛びこんでもこの世界に入ってくるという強烈な意志みたいなものが、今の新しい人たちには見えないですよね。その辺がなんかさびしいですね」
----坂口 尚(1980年『ぱふ』手塚治虫との座談会から)

これは、私が心から尊敬する漫画家・坂口 尚さんの言葉。その座談会の記録が掲載された雑誌を、私が手に取ったのは高校生の頃。それ以来ずっと、心の奥にこの言葉が残って、その後の自分の人生の選択に大きな影響を与えた。何かしら判断が難しく思えた時も、坂口さんのその言葉が自分を後押ししてくれた。単純すぎると笑われるかもしれないけれど、私にとってはそれぐらいに重みのある言葉、自分を勇気づけてくれる言葉だった。

好きなことには後先考えずに飛び込んでで行ける勇気を持ち続けたい。たとえ何を失うことになったとしても。・・・・なぁんて、格好つけてみたって、実際はいさぎよく「崖から飛び込む」ことができなくて、いつも足元ばかり気にしながら道を探っている自分がいる・・・のだけど。

服をつくる

お客さんが、セミオーダーメイドのスーツを販売する事業を新規に始めるにあたり、その業者さん達との打ち合わせの場に私も参加させていただいた。私はその販売用のパンフレットを制作することになっている。5月から受注・販売をスタートさせる予定で、現在は最終的な詰めの段階。これまで、デザインや材料の選定、生産ラインの確保など、その準備に2年もの歳月を経たらしい。

私は服飾の分野には門外漢なので、そのやりとりを端から聞いているだけ。ただ聞いているだけでも、ひとつの服をつくっていくことの大変さを、あらためて知ることができた。印刷の業界と同じで、服をつくる現場はあちこちに分かれているそうで、最終的なものに仕上るまで、たくさんの人が関わる。工場の規模や設備よりも、現場の人達の経験の蓄積や、現場同士をつなぐ了解を築いていくことが、仕上りの質を決めていくようである。多分にアナログの要素が強い。やはり大事なのは「人」の判断ということなのだろう。そういう意味でも、印刷業界とアパレル業界の共通点も伺えて、非常に興味深かった。

服をつくる、カバンをつくる、料理をつくる、本をつくる、映画をつくる、家をつくる・・・・それぞれの世界で、ものをつくることにこだわっている人達がいる。仕事を通じて、そういう世界の一端を垣間見れるのは、本当にワクワクする瞬間だ。ものをつくる現場は、やっぱり楽しい。ただモノを売るのではなくて、その人なりのこだわりを持ってものをつくっている世界に、自分もずっと関わっていけたらなって思う。

DVについて考える

昨年の暮れに、WNSというDV(ドメスティック・バイオレンス)被害者支援のNPOの方から印刷物の相談を受けて、仕事として(半分ボランティア)お手伝いさせていただくことになった。先日(2004年3月4日)はそのWNS主催のシンポジウムがあって、私もお手伝いとして参加して来た。

正直な話、私はDVについて特別関心を持っていたわけではないし、TV等で聞きかじる程度の知識しかなかった。しかし今回のシンポジウムに参加して、たくさんの刺激を受け、私自身いろんなことを考えさせられる機会になった。パネリストのスピーチは非常に内容が濃いもので、被害者カウンセリングの立場からの現状分析や、精神分析の見地からのかなり踏み込んだ話を聞くことができた。全国の自治体の関係機関からの参加者も多く、当日はNHKのカメラも入っていて、この問題が今日、非常に重要なテーマになってきていることを肌で感じることができた。

「DVの問題は、人間の根源に関わる問題なので、犠牲者も加害者もその対人関係ではあからさまな怒りや悲しみといった感情を、ゆがんだ形で表現することが多いのです」(野間メンタルヘルスクリニック院長・野間和子)。自分が生まれ育った家庭内で何らかのメンタルな傷を負ってしまった人や、現在自分が所属している環境の中で過度なストレスが蓄積されていった人達が、自分の内側にある問題・葛藤を非常に激しい形で露出してしまう場面があるのだそうだ。そしてそれは自分の身近な人に愛憎が裏返った形で影響をおよぼしてしまうケースが多い。その程度によって、私たちはそれを「DV」と呼んだり、単に「ストレス」の問題と言ってみたりはしているが、実際にはその問題の根は同じところにある。つまりDVの問題とは、特殊な人達の閉じられた関係の中で起きているのではなく、私たち自身の日常的な対人関係、コミュニケーションのあり方に及んでいるのだろう……。

日本国内ではやっと「DV」という言葉が認知されたばかりで、現場の状況に言葉の定義が追い付いていない。先頃やっと法的な整備としてDV防止法が施行されたばかりで、狭義に「配偶者ないしは恋人からの暴力」という範囲でしか認知されていない。欧米では、女性だけでなく、子供・高齢者・ペットに対する暴力も、DVの問題として取り組む体制にあるようだ。非常に重要なことは、DVは連鎖していくものであり、世代間にわたる問題であり、その連鎖を断ち切らない限りこの問題は終らないし、これからいっそう深刻になる。DVが起きている家庭で育った子供が、自我の形成過程で心理的な傷を負い、そのことが何かのきっかけで非常にゆがんだ形で表れて、今度は自分がDV加害者となってしまうケースがあるのだそうだ。また、夫からの暴力を受け続けたDV被害者が、自分の子供に対して暴力を振い、DV加害者の側になってしまうケースもあるそうである。今日起きている様々な残酷な事件、幼い子供への信じられないような虐待の話から、逆に子供が親を殺してしまう事件、そして正義を掲げた戦争という最大級の暴力、報復としてのテロ行為、その結果として広範な人々に及ぼす影響、くり返される不幸---みんなこの「DV」の問題とつながっているのだと思う。

「今や暴力は、DNAの問題ではなく、環境から学ぶものだと言われてます。本人の意志に関係なく、暴力が伝達されること、そして、また望むならばその受け取った暴力的なあり方を捨て去ることができるのです。」(同上、野間和子)---人間は生まれ育った環境の中で様々な情報を受け取って、自分の自我というものを形成していく。その情報の中には、生きていく上で「負」の方向に(本人の意志に関わらず)働いてしまうものも含まれる。誰もが様々な性質の情報を蓄積し、自分を形成する材料とし、バランスを取って成長していく。ところがその「負」の情報が、自分を思わぬ行動に暴走させてしまうことがある。他人に対する暴力という現れ方する人もいるし、自分に対する攻撃へと向かい、自傷する場合もある……。でも肝心なことは、その人が持って生まれた資質や育った環境の中で集積された情報だけが自分を決定するのではない、人間誰もが、自分の内側を形成している情報を日々更新し書き換える能力を持っている、ということなのである。

では、どうやって、自分で自分自身を更新していけるか、成長していけるか? 「一緒に考えて、ストロークの交換をできる仲間が大事」と野間和子さんは語っていた。---ストロークというのは《その人を認め、評価を与える(言語的・非言語的、身体的・精神的、肯定的・否定的等全て含む)行為》ということらしい。やはり、日常的な人と人との関わり方が大切。そして、人に何か期待するだけでなく、自分も人に「与える」努力をしていくが大事、ということなのだろう。

今回のシンポジウムでは、私自身、本当にいろいろ考えさせられた。今回のレジュメの中で、とても印象に残った言葉があったので引用しておく。

「あなたがそっとやさしく触れてくれたなら、
 あなたがわたしのほうを向いてほほえみかけてくれたなら、
 あなたがときどき、あなたが話す前にわたしの話を聞いてくれたなら、
 わたしは成長するでしょう。本当に成長するでしょう・・・」
               ブラッドレー(9歳)

本屋の魔力

新宿に打ち合わせに出たついで、ひさびさに紀ノ国屋書店に行った。本を作る相談を何件か受けているので、そのサンプル探しも兼ねてだった。

近頃は欲しいと思う本も思いつかないので、近所の小さな本屋で雑誌を買う程度でほとんど事足りていた。大きな書店に入るのは本当にひさしぶりのこと。詩集のコーナーなど物色してるうちに、ふと思いついて学術書のフロアに向かった。先日「DV(ドメスティック・バイオレンス)について考える」というシンポジウムに参加して、興味深い話をたくさん聞き刺激を受け、人間の内面について書かれた文章を読みたくなったのだ。

さて、目的の階のエレベーターを出たら目の前に、「夜想 復刊!!」の貼り紙に目が留まり、即座に手に取ってしまう。雑誌の版型が大きくなってビジュアル志向の雑誌になっていた。とりあえず買うことにする。その横に「2-:+」という兄弟雑誌があった。身体表現(演劇・ダンス・パフォーマンス・映画、etc)を扱っていて、それも面白そうだから買うことにする。そしてその隣の棚は、私を待っていたかのように「DV特集」のコーナーができていた。パラパラめくってみて、アリス・ミラー著「禁じられた知---精神分析と子どもの真実」という分厚い本がすごく面白そうだったので、それを買うことにした。もう目的は果たしたつもりだったのだけど、なんだか急にフロイトの本を読返したくなって、心理学&精神分析の本のコーナーへ向かってしまうノ。そして気になるタイトルのものを選んで手にとってみたが、やっぱり今の私の頭には難しすぎると思い直し、ずっと前に一度読んだことのある古典的なフロイトの名著「精神分析学入門」の1、2巻を買うことにした。

とそこで、「あれっ、横山さん!?」と声をかけられて振り返ったら、いつもお世話になっているお客さんが立っていてびっくり! ちょっと雑談をしながら、精神分析の本を手にしている言い訳などしてみたり。さて、そろそろレジに向かおうと思った途端、フロイトの書棚の一段下に、ロロ・メイの「失われた自己をもとめて」という本が。ロロ・メイは現代のもっとも著名な臨床心理学者のひとり。というか、ほとんど哲学者。以前この人の本を読んでとても感銘を受けた。あぁ、やっぱり買わずにはいられない…。もうキリがあないので、意を決してレジへと向かう。

ところがレジは人が並んで順番待ち状態。両手いっぱいの本を抱えて待っているのがつらいので、とりあえずレジ横の棚に持っていた本を降ろす。ふと「アリスの不思議なお店」という本に目が留まる。フレデリック・クレマン著のため息が出そうなほど美しい絵本。う〜ん。やっぱり、これも買い! ・・・というわけで、結局今日も本をたくさん買ってしまった。レジのお姉さんがニコニコしながら迎えてくれた。

本屋って不思議だ。何か面白いものないかなぁと、からっぽの気持ちで行くと、何も目に留まらない。ところが何かしら、自分の中で求めているものを抱いていると、不思議と予期せずいろんな面白そうな本に出会えたりする。そして結局目的の本を買い忘れてしまったり。そしてまた本屋に行かずにはいられないのだ。

実はその後、印刷物の見本になるものはまだ何も買ってないことに気づき、本の中身はどうでもいいもの含めてあと4冊、雑誌も3冊買ってしまった。いったいいくら使ってしまったんだろう? おそるべし! 本屋の魔力!!

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